弘安八年(1285)の霜月騒動で得宗被官(実権を握った北條嫡家の家臣)の
平頼経 と権力を争って敗れた五代目の宗景(始祖の
盛長→
景盛→
義景→
泰盛→ 宗景と続く)
と共に一族が滅亡するまで100年以上に亘って幕府中枢で繁栄したのが安達一族。ちなみに始祖の盛長は終生官位に就く事がなかった。
.
【 吾妻鏡 養和二年(1182) 1月3日 】.
.
平治の乱(1159)に敗れて翌・栄暦元年(1160)に伊豆蛭島流刑となった頼朝の乳母の一人が比企掃部允の妻(後の
比企尼)、乳姉弟として頼朝と共に京都で育った
のが彼女の長女
丹後内侍。吉見氏系図に拠れば、丹後内侍は二条院(第68代後一条天皇の内親王で後冷泉天皇妃) の女房として仕えた時に惟宗広言(
後白河法皇の近臣で
従五位下) と通じて男子(後の
島津忠久)を産んだ。
.
その後の丹後内侍は伊豆流人の頼朝を庇護するため東国に下向した母に同行し、母の所領・比企郷に住んで藤九郎盛長に嫁した。流人の肉親は流刑地に近付くのを許されないから、比企尼は藤九郎盛長を通じて衣食など経済的な援助を行い、この時から藤九郎盛長と頼朝の接点が生まれることになる。
流人として伊豆韮山に定住した頼朝は13歳で藤九郎盛長は25歳、二人は建久十年(1199)に頼朝が死ぬまでの約40年を共に過ごすことになる。曽我物語に拠れば、北條時政の娘(次女または三女)に届けるべき艶書を長女(後の
政子)に渡して縁を結んだのが安達盛長。彼は頼朝死没直後に出家し1年半後の正治二年4月に世を去ったが、政子は頼朝との縁を結んだ恩に終生報い続け、
頼家 と
安達景盛 のトラブルを未然に防いだのも盛長への恩義、らしい。
.
【 曽我物語 巻二 橘の事 】.
伊東を追われ北條に逃れた頼朝は時政に娘が多勢いるのを知り、伊東でのトラブル※ にも懲りずに恋心を催した。
人の噂で確認すると、「時政の後妻が産んだ二人の娘は美人だが評判はあまり良くない、21歳になって生き遅れた先妻の娘なら良いのではないか」との情報を得た。しかし、ここで頼朝は考えた。
.
「伊東で揉め事になったのは、先妻の娘に手を出したのを継母が告げ口したのが発端だった、だから後妻の娘を選べば間違いないだろう」と考えて艶書を書き、19歳の娘に届けるよう藤九郎盛長に言い付けた。
.
.
※伊東でのトラブル: 伊東祐親 が大番役で不在の間に四の姫(先妻の娘
八重)に男子(
千鶴丸)を産ませ、平家を憚った祐親が子供を殺し頼朝に討手を向けられた事件。
頼朝は祐親の二男
祐清の手引きで辛うじて伊豆山に逃れた。僅かに2年前の出来事だから、何とも学習能力の乏しい御曹司である。
.
この時は大番役から帰った祐親が屋敷の庭で遊ぶ幼児を見て訝り、後妻が「あなたの留守中に私の戒めも聞かず源氏の殿方と懇ろになり産んだ子
ですよ」と得意げに報告したのが発端だった、と曽我物語は書いている。当時の頼朝は22歳前後。
.
話を戻して...更に複雑なのは頼朝と丹後内侍は男女の関係にあり、嫉妬深い政子も幼い時から睦まじく過ごした二人の仲を黙認していたらしい事。この風評を根拠にした
子孫の安達宗景が「従って私は源氏の末裔である」と言い始めた、これが霜月騒動で得宗被官
平頼綱に滅ぼされる発端になった。
.
同様に、若い頃の丹後内侍が惟宗広言と通じて産んだ男子
嶋津忠久 の子孫である薩摩の嶋津家も、「実は忠久は頼朝が丹後内侍に産ませた落胤なのだ」として系図を改竄し、
源氏の血統を主張し始めた。頼朝の伊豆配流は満12歳7ヶ月、この時の丹後内侍は既に男子を産んで数年は過ぎているから、頼朝の子種ならば恐らく元服前の10歳未満
で丹後内侍を妊娠させた計算になる。100%不可能ではないだろうけど...。
.
【 吾妻鏡 文治二年(1186) 6月10日 】 頼朝は側近と三人だけで丹後内侍を見舞っている。危機管理面では異例中の異例だ。
.
【 吾妻鏡 嘉禎四年(1238) 3月23日 】.
夕刻間近に北東の強風が吹き人家の破搊や樹木の破搊が発生した。一時間ほどで晴天に戻ったが、尚も天魔の仕業と思うような強い西風が吹き荒れた。
今日、相模国深澤里※の大仏堂建立が始まった。仏典の教えを広めるのが目的である。
.
※深澤里:鎌倉時代の長谷(現在の四丁目)は鎌倉山や梶原と共に深沢郷に含まれていた。切通しの内側なのに外側に含んだのは何故だろう。
時頼の正妻は宝治合戦で三浦側に味方した
毛利季光 の娘
※だったため離縁、継室に迎えたのが葛西殿。既に庶子の宝壽丸(後に時宗に討たれた
時輔)
がいたが、時頼は正室が嫡男を産むのを強く望んでいたらしい。
.
吾妻鏡の建長三年(1251)5月に
「相洲室(時頼の妻)が産所である 松下禅尼(安達景盛 の娘で時頼の生母)の甘縄邸で安産祈祷を受けた」とか、
「今日産まれる託宣なのに未だ産まれないのは変だ」と若宮別当に問い合わせたなどの記載がある。
.
鎌倉武士を統括する執権が出産程度でアタフタと、みっともない。私なんか二人目の子供が産まれた時は徹夜マージャンしてたよ。まぁそのために長い
長い年月ネチネチと厭味を言われ続け、深く深く悔い改めているけど、さ。過ぎた事を後悔しても始まらない。
.
※毛利季光娘: 三浦一族が頼朝法華堂で最期を迎える前日の宝治元年(1247)6月5日、吾妻鏡に次のような記載がある。
10時頃に毛利入道西阿(時頼を後見していた毛利季光)が武装して御所に加わろうと妻(三浦泰村の妹)が「兄泰村を見捨てて時頼に
属くのは武士にあるまじき振る舞いである」 と説得、西阿は思い直して泰村の陣に加わった。
.
長井泰秀(大江廣元の孫で連署)が御所に馳せ参じようとして西阿入道に行き会ったが、武者としての理が通っているため彼を制止する
事はできなかった、と語った。