安達籐九郎盛長 の誕生は保延元年 (1135) 前後と推定される。久寿三年 (1155) 産まれで20歳年下の
源範頼 とは舅と婿の関係で、友人としても懇意だったらしい。
吾妻鏡には範頼が
頼朝 の送った討手に殺された記録はないが、北條九代記や保暦間記には
「範頼は建久四年 (1193) 8月17日に討たれた」と記載されている。修禅寺に送られ、頼朝の討手を迎えて自殺したのは概ね間違いない。
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猜疑心の強い頼朝が
義経 に続いて近親を粛清した一例で、表向きは謀反の企みの追討である。安達盛長が普通の御家人なら共謀の嫌疑で連座するのだが、盛長は妻の
丹後内侍 (頼朝の乳母
比企の尼の娘) を介して頼朝と緊密な関係を保ち、
北條政子 は頼朝との婚姻を仲介した恩義から盛長一族を庇護・重用した、と曽我物語が伝えるほどの関係だった。
また吾妻鏡も、二代将軍
頼家 と盛長の嫡男
景盛 の側妾を巡るトラブルで盛長・景盛親子を庇う政子の姿を描いている。
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ただし、この「景盛の女を巡るトラブル」を単純に「鎌倉将軍に相応しくない頼家の資質が全ての原因」などと考えてはならない。頼朝が没したのは建久十年 (1199) 1月13日(4月27日に改元して正治元年) で頼家が鎌倉殿を継承したのが2月14日、ところが4月12日には重臣の合議に基づいて、
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との布告が下されている。頼家の資質に問題があったにせよ、着任して僅か二ヶ月での権限停止は明らかに早過ぎる。粛清した側ではなく粛清された側に問題があったとして、「例えばこんな傲慢があった、あんな非道があった」と並べ立てるのは吾妻鏡の常套手段だから、距離を置いて判断する必要がある。
ましてや、権限を停止されるまでのニヶ月間に頼家が指弾されるような行動は (肝心の吾妻鏡の中にさえ) 記録が見られない。権力者に従順すぎる歴史書である。