分倍河原合戦に続く 多摩・関戸の合戦 

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関戸の地名は鎌倉幕府が多摩川(当時は浅川が流れていた)の南岸に設けた「霞ノ関」に由来する。関所は南北に分れており、北側は未発掘だが南側は関戸地区の
鎮守である熊野神社(地図)境内に残る「霞ノ関南木戸柵跡」(レプリカ)の一帯に設けられていた。府中方向から南下した鎌倉街道は多摩川と (当時の) 浅川を渡り
緩やかな登りとなって多摩丘陵に向かう。南北朝時代から戦国時代にかけて合戦が繰り返された交通と物流の要衝である。
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太平記に拠れば、5月15日の分倍河原合戦で 新田義貞の軍勢を撃退した鎌倉軍は勝利に油断して敗走する敵を追撃せず、大多和義勝の援軍を得た義貞軍は翌16日の
早朝に鎌倉軍の野営地を急襲して逆転勝利を収めた。昼前後には防衛線が突破され、鎌倉側総大将の北條泰家(左近入道)もが討死の危機に陥ったが、安保入道親子や
横溝八郎らが死を厭わず戦って敵を食い止め、辛うじて危機を脱出した。
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惨敗した北條勢は鎌倉に集結して防御を固め、進路を塞ぐ敵を蹴散らした新田義貞軍は数ヶ所の切通し突破を目指して壮絶な攻防戦を展開する。5月18日に始まった
白兵戦は7日間続き、24日には生き残った北條一族が東勝寺に籠って自刃。頼朝 の鎌倉入りから153年続いた政権が幕を降ろす。
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昭和40年(1966)にスタートした「多摩ニュータウン計画」に基づく宅地造成などによって多くの史跡が失われてしまった。辛うじて安保入道と横溝八郎の墓、
無名戦士の五輪塔など史跡の一部が保存され、合戦の跡を今に伝えている。
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  ※多摩の宅地造成: 1994年のスタジオジブリの 平成狸合戦ぽんぽこ (wiki) は多摩ニュータウンの開発と住み着いていた狸の抵抗がテーマだった。
私、40代前半の頃はこの近くに住んでいた。今回は久しぶりに思い出大井土地を歩いてみた。


     

              左&中: 関戸橋を渡って多摩センターに向う都道18号の100m西側、平行して走る旧鎌倉街道沿いに関戸古戦場碑が見える(地図)。
寛文年間(1661〜1673年、徳川四代将軍家綱の頃)に建造の堂には地蔵菩薩が、右には戦死者を供養する「永代融通念仏盟約塔」と
刻んだ角塔(寛政元年・1789年銘)が建っている。横の小道を進むとすぐ右側の民家の庭に横溝八郎の塚、更に緩い坂道を辿ると延命寺、
南北朝〜戦国時代にかけて霞之関番を務めた佐伯氏の館跡と伝わっている。
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              右: 民家の庭奥の供養碑には「武将塚 横溝八郎之墓 関門山 延命寺」とある。背後の大きな円墳が横溝八郎を葬った武将塚である。
礼を欠かさぬよう道路から眺める或いは撮影する程度に済ませたい。近寄りたい場合には必ず許可を得る配慮を忘れずに。


     

              左: 塚は直径10mほど、個人の墓にしては大き過ぎるから、横溝八郎に代表される複数の戦死者を葬ったのかも知れない。延命寺の宗派は時宗で
本尊は釈迦如来像、創建などの由緒は確認していないが従軍していた陣僧が多くの戦死者を弔い、そのまま土着した可能性も考えられる。
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これは久米川合戦場に近い長久寺(時宗)が弘安元年(1333)の創建で、合戦場に時宗の僧が戦死者を供養した板碑を建てているのと同じ
事例だと思う。時宗の寺は少ないからね。現在の延命寺は多摩十三仏霊場の二番札所となっている。
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              中&右: 旧街道に戻って南へ(つまり関戸橋を背にして)300mほど歩くと右側のマンション手前の石垣に急傾斜の石段が見える。古い民家の裏庭に
通じている途中の左側に数基の古い五輪塔が見える。関戸合戦で落命した名もない武者の墓標である(地図)。
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開発が進む前の多摩丘陵には各所に戦死者を弔う五輪塔群が見られたらしいが、今では両手の指で数えられる程度に減ってしまった。


     

              左: 更に100mほど進んで信号を右折した右側が 慈眼山唐仏院観音寺(公式サイト)、数種類の霊場巡り札所で建久三年(1192)の創建と伝わるが
寺域の整備が済んだばかりで外見は新しい。10数年前から毎年5月16日には関戸合戦で死んだ武者の供養会を催している。
石段の途中から振り返ると民家の庭にひときわ高い杉の木が目に入る。その根元に討死した鎌倉武者の一人・安保入道の墓がある。
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              中: もちろん許可を得て庭に入らせて頂いた。小さな墳丘の上にある石祠の様な姿が安保入道(道忍)の墓、と伝わっている。安保(阿保)氏は武蔵七党
の一つ 丹党に属して武蔵国西北端の賀美郡安保郷(現在の上里町一帯、地図)を本領とした武士団。承久の乱(1221)で泰時配下として従軍し、
宇治川合戦で渡河を試みて溺死した武士の中に安保刑部丞(実光)の名が見える。実光の嫡子は七男の実員、承久の乱の恩賞として播磨国の守護に
に任じている。「安保入道」は実員の2、3代ほど後の人物だろう。
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安保入道の惣領家は鎌倉幕府と共に滅びたが、足利尊氏側に属した庶流が北朝の家臣として本家の所領を安堵されている。丹党の殆どが南朝に従ったのは
新田荘に近い地理的な要因か。大将の北條泰家(九代執権 貞時 の四男で 高時の同母弟)を逃がすため殿(しんがり)を守って全滅した武士の殆どが
丹党だったらしい。
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              右: 熊野神社の参道に残る霞之関の柱杭(もちろんレプリカ、地図)。ここは関所の南側で、北側は延命寺付近と推定されるが、既に確認はできない。
熊野神社から聖蹟桜ヶ丘駅南の丘陵には史跡が点在しており、頂上付近には見張り台や義貞布陣の跡などの伝承も残っている。

この頁は2022年 9月 7日に更新しました。