本尊は京の仏師憲円が貞治四年(1365)に彫った木造地蔵菩薩坐像で、他に155cmの歓喜天立像
※や二世住職の惟賢和尚坐像を収蔵している。
宗派は天台宗、9月初めから中旬の境内に白萩が咲くことから「萩の寺」(検索すると画像多数)と呼ばれている。鎌倉には花を売り物にする寺社が多く、
それを目当ての観光客も多い。名月院のアジサイ、報国寺の竹林、妙法寺の苔、安養院のツツジ、瑞泉寺のキキョウ、段葛のサクラ、八幡宮の花ハス。
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寶戒寺の一帯に館(小町亭)を構えたのは二代執権
北條義時。それまでの館は大倉御所南の金沢街道雪ノ下の洋菓子店
ニュージャーマン(公式サイト)
支店(閉店した)の東側
※(
地図)を本拠にしており、小町亭を建てたのは元久二年(1205)閏7月の
北條時政 失脚以後だろう。
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小町亭に移った後の大倉亭は嫡子の泰時(後の三代執権)が住むと共に義時の執務場所を兼ね、承元元年(1219)の
実朝 暗殺の際にはここから
指揮を執っている。元仁元年(1224)6月13日に息を引き取ったのも同じ大倉亭である。大倉亭は
北條泰時 以後も私邸として使われたが、執務は
小町亭がメインとなった。
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石清水八幡宮収蔵の「
足利尊氏 寄進帳」(鎌倉幕府滅亡2年後の建武二年(1335)3月28日付)に
「北條高時 慰霊のため邸の跡に 後醍醐天皇 が
建てた」との記載があり、円観慧鎮
※を開山和尚にして建立を目指したが実際には数年後(1339年以降)に足利尊氏が建て、全体の姿が整ったのは
二世の惟賢和尚(尊氏の二男)が灌頂(密教の重要儀式)を行なった文和三年(1354)頃と推定されている。
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※歓喜天立像: 寶戒寺では別棟の歓喜天堂に祀る秘仏で、象の頭部を持つ二体が抱き合っている。拝観はできないが小穴から厨子を覗くのは可能。
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※大倉亭の位置: 関取場跡の碑 付近が義時の大倉亭跡らしいが住宅密集地なので発掘調査は不可、現地の風景は
こちら。
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※円観慧鎮: 天台宗の高僧で後伏見・花園・後醍醐・光厳・光明天皇の帰依を受け五国大師と呼ばれた。名は慧鎮(または恵鎮)。
後醍醐天皇 の倒幕計画に加わって祈祷を行い、南北朝時代には北朝に属して活躍した。