南部一族発祥の地  

 
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右:富士川に沿って点在する南部氏の遺跡   画像をクリック→明細にリンク
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一族の墓所がある瑞雲山浄光寺は臨済宗妙心寺派、本尊は阿弥陀如来。慶長十六年(1611)に全焼したため創建の年代などは
不明だが 甲斐国史 (wiki) は大覚禅師の開山としている。創建当初は 建長寺(公式サイト)末寺、元禄年間(1688〜1703)には京都 妙心寺 の末寺になっている。
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裏山の中腹にあった一族の墓所は昭和41年の台風で埋没し、五輪塔や宝篋印塔は同57年の供養塔建立に伴って発掘移設された。形状は鎌倉時代の初期から南北朝時代のもので、南部郷の波木井(内船の13km北)に残った三男実長(館跡は波木井山円実寺)および彼の子孫が守り続けたもの、だろう 地図)。
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近くには、陸奥南部家二代目の実光が移住先である八戸の 櫛引八幡宮(公式サイト)に御神体を遷したと伝わる元の八幡神社があった妙浄寺、始祖の 南部光行 が遠祖の 新羅三郎義光を祀って霊廟とした新羅神社、妙浄寺北東の富士川沿いには南部氏の館跡などが見られる。史蹟の位置図を参考に。
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  ※大覚禅師: 南宋出身の渡来僧 蘭渓道隆。寛元四年 (1246) に来航、五代執権 北條時頼 の帰依を受けて臨済宗を広めた。
鎌倉建長寺の開山、寿福寺と禅興寺の住持、修禅寺の改宗、甲斐東光寺再興などの実績を挙げたが、元の密偵との嫌疑を受けて伊豆修禅寺に流された。
当時の南宋は元(モンゴル帝国)に滅ぼされる(1279年)危険を逃れた亡命と考えられる。南宋の滅亡が明白になった1274年には最初の元寇である文永の役が勃発、蘭渓道隆は弘安元年(1278)に赦免されて建長寺に帰り死去。


     

           左: 正面の浄光寺へ向う雨の参道。駐車場もあるが今回は参道手前に車を停め歩いて参拝した。この左手には歴史の古い諏訪神社がある。
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           中: 落ち着いた風情の瓦葺き本堂。すぐ右奥の時計台が南部中学校、妙浄寺や八幡神社へは一旦参道を下って迂回しなければならない。
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           右: 浄光寺の門前から見る富士川方向。内船寺がある対岸の「うつぶな公園」は満開の桜でピンクに染まっていた。季節には紫陽花も楽しめる。


     

           左: 寺域の前から参道入口を振り返る。右手墓地奥の諏訪神社は神仏混淆時代名残りの紙本墨般若心経(県文化財)を所蔵している。
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           中: 昭和57年に建立された白御影石の南部氏供養塔。墓碑には「県内最古の...」とあるが、甲斐源氏の墓所としては、特に古くはない。
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           右: 墓石群は立派な造りの覆屋で守られている。縦格子の姿が牢獄みたいでやや風情には欠けるが...。


     

           上: 覆屋の中に並ぶ墓石群は台風で埋没、15年後の慰霊碑建立の際に発掘された。形状は比較的新しく、古式の五輪塔はごく少ない。
おそらくは本領の地に残った光行の三男実長系の子孫の墓石だろうと推定される。


     

           左: 屋敷跡から300mほど南西の妙浄寺。元は真言宗の大日山妙楽寺、南部一族の菩提寺だった。日蓮 は身延山へ向う途中でこの寺に
一泊し村人のために加持祈祷を行った。住僧の大輪法印は日蓮に帰依して日寿と改名、宗派を改めたと伝わる。
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           中: 妙浄寺山門。日蓮が加持祈祷を行った霊場として、法主が身延山に入る際は立ち寄るのが通例とされている、らしい。
           右: 日蓮は境内の小さな井戸で身を清め祈祷を行った。村人が捧げた花を井戸の釣瓶に挿して祈ったため「花釣瓶の井」とされた。


     

           左&中: 本堂裏の八幡屋敷と呼ばれる場所にあった八幡神社は既に痕跡もない。奥州に定着した南部家二代・実光が承久ニ年(1220)に
御神体を奥州の三戸に遷し、櫛引八幡宮(公式サイト)として祀った、と伝わる。
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           右: 光行が祖霊(新羅三郎義光)を祀ったとされる新羅神社へ登る参道。青森の三戸市・南部町・十和田湖町など光行の領地にもある。


     

           左: 新羅神社の本殿。青森の南部町と十和田湖町の神社はいずれも1100年代・鎌倉初期の創建。三戸の長者山新羅神社は南部一族の後裔である
八戸藩二代藩主南部直政が延宝六年(1678)に祈願所として建てたとされ、比較的新しい。
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           中: 富士川右岸の伝・南部氏館跡。享保(1720年前後、吉宗の頃)の記録は「敷地は東西一丁(109m)余・南北40間(72m)、土塁・壕が
あり北側には7尺(2.1m)の掘り抜き井戸がある」としているが、今は井戸が残るのみ。この屋敷がいつまで使われたのかも不明である。
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           右: 屋敷跡のすぐ前が富士川。約10km北の中央の山は日蓮宗の聖地・身延山、この麓の波木井に三男実長以後の子孫の館跡がある。


     

           左: 内船寺に近い桜の名所・うつぶな公園からの展望。富士川の手前をJR身延線、対岸を国道52号(昔の河内路・駿州往還ルート)が走る。
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           中: 画像中央に小さく見える尖塔が南部中学校、グラウンドの左側が菩提所の浄光寺、南部中学校右側の青い屋根が日蓮所縁の妙浄寺。
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           右: 北西の富士川上流、身延山の方向。遠くに南アルプス手前の七面山(1982m)が見える。加賀美一族や安田氏の本拠・甲斐盆地に比べて
富士川沿いの平地はかなり狭くて稲作には不向きに見える。一族は豊かな土地を夢見て新領の陸奥に旅立ったのかも知れない。


     

           上: 内船寺と南部一族&甲斐源氏は無関係なのだが、富士川と南部郷を見渡す「うつぶな公園」まで登った付録という事で...。
内船寺を開いたのは北條氏の傍流・名越氏(始祖は 義時 の二男 朝時)に仕えた鎌倉武士の四条頼基(左衛門尉)。文永十一年(1274)に
身延山に入った日蓮を慕ってここに移り住み、建治三年(1277)に三間(5.4m)四方の持仏堂を建てたのが最初、と伝わる。
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その後に主君 北條光時 の病気平癒に功があり、内船の地を与えられたらしい。ひょっとして日蓮の加持祈祷に頼ったのかも。
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四条頼基は夫婦で日蓮に帰依し、弘安二年(1285)には館を寺院に改め正住山内船寺とし、正安二年に没してここに葬られた。寛政年間
(1789〜1803)と安政年間(1854〜1859)に焼失、再建して現在に至る。境内に頼基と妻(弘安三年没)と娘(月満御前)の墓が残る。
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            ※身延山: 文永十一年(1274)、日蓮に帰依した波木井郷地頭の南部(波木井)実長が佐渡流罪から鎌倉に帰った日蓮を招き草庵を建てたのが始まり。
日蓮はここに9年間住み、弘安五年(1282)に武蔵国の池上宗仲邸(大田区)で没した。遺骨は遺言に従って身延山に祀られ、室町時代に
伽藍が整備されて宗派の聖地 身延山久遠寺(公式サイト)となっている。
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            ※北條光時: 四代執権の 北條経時が早世。名越流の北條光時は前将軍の 藤原頼経と共謀して五代執権の 北條時頼を倒そうと図ったが計画が
露見し、所領没収のうえ伊豆北條に流された。北条得宗家と名越家はその後も対立し再三の衝突事件を起こしている。


     

           左&中: 内船寺の宗派はもちろん日蓮宗、甲斐百八霊場の106番である。四条頼基夫妻の木像、日蓮の木像と真蹟、日蓮真筆と伝わる曼荼羅4幅、
頼基直伝の医薬調合を内側に刻んだ梵鐘など寺宝を保存している。市街地から遠く、静かな雰囲気が味わえる。
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           右: 鏡圓房は久遠寺の南麓の梅平、国道52号(身延道・駿州往還)に面している。周辺に散在する歴史の古い寺の殆どが日蓮宗である。
樹齢400年の枝垂れ桜(参考サイト)でも知られている地図)。現在は身延山久遠寺の僧坊の一つで、参拝者用の駐車場を備える。
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南部光行は建久二年(1191)に陸奥国に移り奥州南部氏の祖となった。甲斐本領に残った三男実長(貞応元年・1222〜永仁五年・1297)は
波木井・御牧・飯野を継承して地頭職を務め、波木井氏を称した。
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文永六年(1269)前後に鎌倉で日蓮の辻説法に接した実長は日蓮に深く帰依し、文永十一年(1274)に佐渡流罪から鎌倉に帰った日蓮を
招いて庇護したのは前述の通り。鏡円坊は波木井氏の館跡と伝わっており、光行三男実長の二男実光が晩年になって寺に改めた、らしい。
波木井には8代後の南北朝時代に信光・政光の兄弟が南部八戸郷(青森)に移るまでの約200年間、甲斐南部一族が本拠を置いていた。


     

           上: 鏡円坊から200mほど西に波木井氏の立派な墓所がある。左側を200mほど登った約40m四方の平場に波木井氏の館があった。
周辺には土塁や濠の痕跡もある。昭和58年(1983)には教育委員会による発掘調査が行われ焦土層や建物の礎石跡、12世紀末の土師器
なども出土しているが館跡の確証は得られていない。ちなみに、鏡円坊の3kmほど北東の波木井山円実寺も館の跡であり、布教中の日蓮が
足を留めた場所だったと伝わっている。樹齢300年の枝垂れ桜が三本あることでも有名。
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【 蛇足 久遠寺参拝について 】
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公共交通機関を利用する場合はJR身延駅前から1時間数本の頻度で路線バス(所要時間は15分弱)があり土日は乗合タクシー (200円) も
運行する。また新宿駅と久遠寺山門前を結ぶ高速バス(往復5300円)も利用できる。以上は久遠寺公式サイト の「アクセス」を参照のこと。
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行楽シーズンや桜の時期の休日は混雑が激しく、車は避ける方が無難。それ以外なら山門前に仲町駐車場(確か1時間300円、追加30分ごと
に100円)がある。本堂に最も近いのはロープウェイ乗場の駐車場で料金は同じ程度、山門を過ぎて道なりに右方向へ登れば良い。
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山門から本堂まで歩くなら男坂と女坂(巾が広くて少し緩やか)があり、楽をしたければ2009年に完成した斜行エスカレーターでバス停近く
から本堂横まで数分で登れる。5〜17時の運行で料金は志納、この施設は本当にありがたい、法華宗に帰依しても構わない、と思う程だ(笑)。

この頁は2022年 8月 6日に更新しました。