北條時政 の嫡子
三郎宗時 は治承四年 (1180) 8月の石橋山合戦で敗走、本領の北條へ落ちる途中で
伊東祐親 の手勢と遭遇し、地元小平井の名主 紀六久重(伊東祐親の郎党
説もある)に討たれた。紀六久重が「時政を討ち取った」と名乗りを挙げたため、この場所は「時まっつあん」と呼ばれている。
紀六久重は翌年の1月6日に相模国蓑毛(現在の秦野市)で捕縛され、4月19日に腰越浜で斬首された。
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同じルートを共に逃げた
狩野茂光 は伊豆半島屈指の豪族で、保元の乱後に大島に流されて勢力を広げた
為朝 追討軍を指揮した部将。肥満のため馬に乗れず、輿では逃げ切れぬと
判断してこの地で自刃した。同行した孫の
田代冠者信綱 に懇願して介錯させた、と伝わっている。
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【吾妻鏡 治承四年(1180) 8月24日】.
(石橋山に続く土肥堀口の合戦で敗れた頼朝軍は分散し) 北條時政と次男 義時 は箱根湯坂道を経て甲斐国を目指した。北條三郎(嫡男宗時)は土肥の山から桑原に下り、
平井郷の早河付近で伊東祐親の軍兵に包囲され、小平井の名主 紀六久重に射取られた。狩野茂光は進めなくなったため自殺した。頼朝の陣と彼らの戦場は山と谷を隔てて
いるため救う事も出来ず、悲しみは深いものだった。 .
墓のある小高い丘から見ると宗時の本領である北條まで僅かに5km、あそこまで逃げ延びれば...と思っただろう。歴史に「もしも」は無意味だが宗時が逃げ延びれば義時も
鎌倉幕府の実権TOPには登れず、狡猾に (笑) 政敵を滅ぼすことも時政が失脚することもなかった、かも知れない。
甲斐を目指して逃げた時政&義時と、本領を目指して逃げた宗時&茂光の運命は明暗を分けた。この付近からの高台からは富士山が美しい姿を見せてくれる。