全国各地に残る日本武尊(ヤマトタケル)の東征神話がこの地域にも伝わっている。合戦の跡を示す石碑から1km南東の
北野天神社 (wiki) の社伝に拠れば、日本武尊はニギハヤヒ・ヤチホコの二神をこの地に祀り物部天神・国渭地祇神として尊称し、篭手をかざして周辺を眺めた。
この伝説が小手指の地名の起源である、と。
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長徳元年(995)には菅原道真から五代後の子孫 修成が武蔵守として下向した際に祖神の道真を祀ってからは道真に肖って北野天満宮と称された。以後は
源義家、
源頼朝、
足利尊氏、前田利家ら多くの武将が崇敬し社殿を修造または造営したと伝わる。現在の本殿は安永年間(1772〜1780)、拝殿などは平成六年の改築による。
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小手指の一帯は入間川の東に拓けた肥沃な台地で、古代住居跡など多くの遺跡が発掘調査されていると同時に関東の南北を結ぶ鎌倉街道の要衝として、
新田義貞 と北條氏の衝突以後も数度の合戦があった。
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入間川の西側は武蔵七党の村山党金子氏や丹党加治氏の本拠であり、更に西の飯能周辺には源氏の祖
経基王 が
平将門 と紛争を起こした伝承地の狭服山や、668年に新羅に滅ぼされた高句麗王族の若光王が戦乱を逃れた帰化人と共に定住した
高麗神社(公式サイト)など、多くの見所が点在している。
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石碑横の説明看板は次の通り。
埼玉県指定文化財(旧跡) 小手指ヶ原古戦場 所在地 所沢市北野2−12−4(地図)
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小手指ヶ原は鎌倉時代末期から南北朝時代にかけて再三の合戦が展開された地です。当時は一面の原野で、北方は入曾(狭山市)から藤沢(入間市)あたりまでがその範囲に含まれていました。背後には狭山丘陵があり、また鎌倉街道の沿線にも位置していたため、古来戦場となることが多かったのです。
特に歴史的な合戦の一つとして、元弘三年(1333)上野国新田庄(現在の群馬県太田市)を本拠とする
新田義貞 の鎌倉攻めがあります。
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同年5月8日に義貞は北條氏の支配する鎌倉幕府を倒すため新田庄で挙兵、利根川を渡り鎌倉街道を一路南下した新田軍は11日にここ小手指の地に至ります。太平記によると最初は150騎ほどだった一行は進むにつれ沿道の武士を加え、最後には20万騎にも及んだと記されています。
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新田義貞の軍勢とそれを迎え撃つ鎌倉幕府軍は緒戦となった小手指ヶ原で30余回も討ち合いますが勝敗はつかず、新田軍は入間川(狭山市)に、幕府軍は久米川(東村山市)にそれぞれ引きました。翌12日に新田軍は幕府軍に押し寄せ、幕府軍は分倍河原(府中市)まで退きます。
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その後幕府軍は援軍を得て一旦は立て直すものの、結局21日には鎌倉極楽寺坂への新田軍の進軍を許し、5月22日幕府軍の
北條高時 らが鎌倉の東勝寺で自害し、鎌倉幕府は滅亡するに至りました。背後の小高い塚は白旗塚、源氏の末裔である新田義貞がここに陣を張り、源氏の旗印とされる白旗を立てたという伝承があります。 平成二十二年三月 所沢市教育委員会
左:小手指ヶ原合戦場周辺の地図 画像をクリック→拡大表示
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太平記に拠れば総勢30万騎以上、10倍に誇張したと考えても三万騎の武者が長時間の死闘を繰り広げたのだから相当広い範囲を駆け回った筈で、本来なら場所の特定などできない。義貞が本陣を置き旗を立てて戦勝を祈ったと伝わる白旗塚の近くが中心と考えて小手指ヶ原古戦場碑を建てたのだろう。ここでは鎌倉幕府滅亡後の正平七年(1352)に南朝側の義貞子息義興と義宗・脇屋義助の子息義治らが北朝の
足利尊氏の軍勢と 「武蔵野合戦」
※で雌雄を争っている。
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※武蔵野合戦: 尊氏派と 尊氏の実弟直義派 に分裂した北朝の混乱を狙った新田の脇屋義助勢は鎌倉陥落後に
潜伏していた北條高行 (高時の弟)
と共に上野国で挙兵し鎌倉を目差して進軍、
後醍醐天皇 の皇子 宗良親王も信濃で挙兵したため、尊氏は鎌倉を出て迎撃し小手指〜狭山一帯で戦った。敗れた新田勢は迂回して鎌倉を占領するが奪還されて越後に逃亡、北條時行は龍ノ口で斬られた。
この合戦以後の南朝側が再び勢力を回復する事はなかった。
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国木田独歩は明治三十一年(1898)に発表した小説「武蔵野」の冒頭で次のように記述している。
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「武蔵野の俤は今わずかに入間郡に残れり」と自分は文政年間にできた地図で見たことがある。そしてその地図に入間郡「小手指原久米川は古戦場なり太平記元弘三年五月十一日源平小手指原にて戦うこと一日がうちに三十余たび日暮れは平家三里退きて久米川に陣を取る明れば源氏久米川の陣へ押寄せると載せたるはこのあたりなるべし」と書きこんであるのを読んだことがある。
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自分は武蔵野の跡のわずかに残っている処とは定めてこの古戦場あたりではあるまいかと思って、一度行ってみるつもりでいてまだ行かないが実際は今もやはりそのとおりであろうかと危ぶんでいる。ともかく、画や歌でばかり想像している武蔵野をその俤ばかりでも見たいものとは自分ばかりの願いではあるまい。それほどの武蔵野が今ははたしていかがであるか、自分は詳わしくこの問に答えて自分を満足させたいとの望みを起こしたことはじつに一年前の事であって、今はますますこの望みが大きくなってきた。 〜以下、略