かつては鎌倉街道が通じていた要衝、入間川。6人の家臣を伴って鎌倉を脱出した
義高が目指したのは祖父
帯刀先生義賢 の本拠だった
大蔵館 であり、母の山吹(伝・義仲四天王の一人
樋口兼光の妹)と落ち合う予定だった鎌形(元の義賢下屋敷で
義仲生誕の地)であり、運に恵まれれば木曽谷まで落ち延びられるか、或いは鎌形から2km北東の
菅谷館 (別窓)に駆け込んで
畠山重忠の庇護を受けられるか、そう考えたのかも知れない。
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久寿二年(1155)8月、義朝の長男で悪源太と評された荒武者
義平 は父の命令を受けて大蔵館を襲撃し叔父の義賢(義朝の弟)を討ち取った。このとき一緒に殺される筈だった義賢の二男で当時3歳の駒王丸(後の
義仲)を助命して木曽へ逃がしたのが畠山重忠の父
畠山重能 と
斎藤實盛 である。もしもこの時に義高を救っていれば、畠山親子は二代に亘って義仲親子の助命に手を貸したことになるのだが、そんな劇的な展開は実現しなかった。
右:清水義高が討たれた入間川の鳥瞰 画像をクリック→拡大表示
義高主従は鎌倉街道を北へ、八丁の渡し(入間川に架る新富士見橋と昭代橋の中間にあった)を越えて奥州街道との分岐付近まで逃げ、追手が迫ったため地蔵尊の後に隠れた。一度はやり過ごしたが所詮は子供、結局は捕えられて首を落とされたと伝わる。
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交差点北側の影隠地蔵がその名残りであり、元々は木像だったものを明治初期に石像に改めたもの(
地図)、短時間なら入間川を背にして信号を右折し左手の団地に面したスペースに駐車できる。
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地蔵尊の横を登っているのが「信濃坂」、日高〜坂戸〜毛呂山を経て武蔵嵐山に向う。坂を登って点在する史蹟や旧道の名残りを辿りつつ旧鎌倉街道の跡を歩くのも趣きが深い。旧鎌倉街道を歩く人は年々増えているようだ。一方で坂の下を交差する奥州道は現在の川越を経て小山〜宇都宮方向へと続き、遠く奥州平泉へと伸びる。最終到着地は津軽半島の外浜だ。
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地元に残る伝承に拠れば、
北條政子 は自ら入間河原まで出向いて神田(水田)を寄進し義高供養の社を建てた(ただし、政子が訪れた正式な記録はない)。かつては周囲に垣を巡らした朱塗りの社殿だったらしいが応永九年(1402)8月の大洪水で全てが流され、江戸末期に現在地の200m北(鳥瞰図の黄色★マーク)で見付かった石祠をここに遷座して祀ったと伝わる。神社の祭神は当然ながら清水冠者義高、5月の第3土曜日が例大祭である。
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志水八幡(
地図)はスポーツ用品アルペン (現在はスタジオ アリス) の筋向いに位置する。国道16号沿いで交通量が多く脇道も狭いため、北側の新富士見橋東詰のイオン駐車場が使えたのだが現在は更地、約900m北の新店を利用するか、2023年の夏には「イオンスタイル」として開店する、らしい。気軽に駐車できる大型店が少ないのが辛い...強いて言えば広瀬橋北詰のヤオコー (屋上がベスト) を利用して影隠れ地蔵→ 新富士見橋→ 清水八幡→ ヤオコー のルートか (約4km)。自転車ならベストだけど。