大蔵館跡と源義賢の墓所 

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大蔵館は都幾川を北に見下ろす標高の低い台地の上に造られている。土塁・空堀が巡らされた遺構は東西170m×南北215mの範囲で確認されており、
館は相当広大な規模だったらしい。付近には御所ヶ谷戸や堀の内など平安時代末期を思わせる地名も点在し、昔はは物見櫓の跡も見られたと伝わっている。
特に館の東側の民家には道路に沿って土塁跡が見事に残され、この更に東側の交差点を南北に走る道が上野国に続く鎌倉街道である地図
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館の中心部は一段高くなった現在の大蔵神社付近と考えられているが、南北朝〜戦国時代には鎌倉街道沿いの軍事拠点や砦として利用され、造り変えた痕跡が
多くある、という。大蔵館の所在地は町田市の小田急線鶴川駅に近い大蔵町や、後に鎌倉幕府最初の政庁が置かれた雪ノ下の大蔵(大倉)と考える説もあるが、
為義と義賢の親子がが秩父平氏を味方にして北関東の覇権を狙ったのを考えると、やはり鎌倉街道沿いの嵐山町だった可能性が文句なしに高い。
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源義賢 は保延五年 (1139) に体仁親王 (東宮時代の近衛天皇) 警護部隊の長である東宮帯刀先生 (とうぐうたちはきのせんじょう) つまり皇太子の武装警備
隊長を務め、永治〜康治年間 (1141〜1142) に上野国多胡を領有して多胡館 (高崎市吉井町多胡) に住み秩父平氏嫡流と結んで武蔵国大蔵まで南下した。
為義 の命令を受け、拠点の相模国から北関東に勢力を伸ばそうと考えていた異母兄の 義朝 の牽制を狙った、その結果が大蔵合戦である。
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為義と義朝親子の不仲が引き起こした合戦であると同時に、義賢に協力して勢力を広げようと考えた秩父平氏の棟梁 秩父重隆 に対して、秩父氏の相続から排除
された不満を抱いていた 畠山重能 (重忠の父) や 利根川を挟んで秩父氏と衝突していた 新田義重 や 義朝の郎党だった 斎藤実盛 らが義平の味方として参戦
していたから一種の代理戦争の様相もあった。敵の味方は敵、の論理から、新田義重と敵対していた藤姓足利氏も秩父氏と組んでいた、らしい。
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念のため加筆すると、桓武天皇--葛原親王--高望王 (平高望) --良文--忠頼--秩父将恒--武基--武綱--重綱 と続いた嫡流の次の重弘が、正妻が産んだ重能ではなく
後妻の産んだ重隆を嫡子に選び、重能は秩父氏の本領を追われ東隅の一画に過ぎない畠山郷を与えられて畠山を名乗った、その遺恨である。良くある話、ね。
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大蔵合戦の一年前に大蔵に近い鎌形にある義賢の下屋敷で産まれた 木曽義仲 は25年後の治承四年(1180)に信濃海野宿で挙兵して10月に亡父 義賢に
所縁の土地である上野国多胡に入り、12月の末には信濃に撤退している。義仲挙兵に対抗して南下の動きを見せた越後平氏の 城資永 に備えるため、或いは
既に上野国を勢力範囲に収めていた頼朝 からの圧力を受けて武力衝突を避けたこと、などが理由らしい。
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【吾妻鏡 治承四年(1180)10月13日】
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木曽義仲は亡父義賢の旧蹟を尋ね信濃国を南下し上野国に入った。足利俊綱(藤姓足利氏)の所領だが、彼を恐れる必要はないと民に命じた。
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【吾妻鏡 同じく、12月24日】
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木曽義仲は上野国を退去し信濃国に戻った。多胡荘は亡父義賢の所領として留まる意思はあったが、既に頼朝の勢力範囲だったため退去した。

     

           左: 南側の安養寺(天台宗)越しに大蔵神社の森を。安楽寺には天台宗の僧籍を得た作家の今東光 (法名を春聴) が昭和10年頃に入っていた。
ただし、住職としてではなかったらしい。春聴は後に比叡山や平泉中尊寺の再建整備に尽力した事でも知られている。
安養寺の山門は江戸時代末期の建立で、嵐山町の文化財指定を受けている。
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           中: 南北を逆にして、北側を流れる都幾川(荒川の支流)北岸からの鳥瞰画像。@は土塁の跡、Aは大蔵神社、Bは義賢の墓所、Cは安養寺、
Dは南に向う鎌倉街道が越える笛吹峠。南北朝時代に足利尊氏の兵に追われた宗良親王が横笛を吹いて心を鎮めたとの伝承が残る。
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           右: 白線で囲った部分が大蔵舘の跡と伝わるエリア。@は土塁の跡、Aは大蔵神社、Bは義賢の墓所、Cは安養寺。
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           ※天台宗: 仏教の宗派の成立や教理を知るには他派のコメントを読むのが一番。中でも 日蓮正宗のサイト は創価学会に対する悪口に満ち溢れ抜群に
面白い。日蓮が「真言は亡国、禅は天魔、念仏は無間(地獄)、律は国賊」と罵倒した伝統は脈々と伝わっているのだ。宗派争いって滑稽!
まぁ最初から最後まで独善的で、権力指向で、上納金を集めることしか考えていない創価学会に比べたら遥かに良心的だけどね。


     

           上: 東側よりも2〜3m高い西側の一角に建つ大蔵神社一帯が義賢の大蔵館の跡。道路に沿った土手は当時の土塁ではなく、新たに県道を通すため
台地を切り下げた跡らしい。両側に玉石を積んだ参道も同様に切り下げたものだろう。一見すると単なる平地で無防備な館に見えるが、社殿の
敷地と周辺との高低差は東の鎌倉街道側で約6m・北側で7m・西側で2m、南側だけがフラットである。


     

           左: 参道入口から約80m離れた大澤氏宅西側には土塁の跡がはっきりと認められる。ここまでが館の敷地で、南北に走る鎌倉街道に面した大手口
だった。土塁は脇道に沿って50mほど続いており、北側の一部にも土塁が残っているらしいが今回は確認しなかった。
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           中&右: 館跡と伝わる敷地には大蔵神社と伝城山稲荷神社(この素性は判らない)の二棟が建っている。


     

           上: 大蔵館跡から約300m離れた農地に磨り減った上に字が細かくて読めない大きな石碑があり、横の参道を進むと義賢廟所の額が架った覆い屋に
巨大な五輪塔が納められている。鎌倉街道の信号側からも入れるが、個人(新藤家)の敷地内なので参道側から入りたい。


     

           左&右: 義賢の墓石と伝わる五輪塔は義賢本人ではなく、妻(だとすれば藤原宗季娘ではなく秩父重隆の娘か)の可能性もあるらしい。
頭頂部の空輪と風輪と台石の地輪は欠落を後世に補ったもので、当初のまま残っているのは火輪(笠部分)と水輪(球形の部分)のみ。
数度の火災を経て破損した痕跡が残っている。残念ながら義賢が没した時ではなく後年に建造された慰霊の墓、と思われる。
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           右: 墓所の入口前に味気のないピカピカの廟所(たぶん観光用)が出来上がっていた。義賢の慰霊墓を中心に源氏の数柱が祀られている。
こういうのって好きじゃないけど、現在の廟所が個人の敷地にある関係で本格的な整備ができなかった可能性もある。