曽我物語の原点 奥野の巻き狩り 

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昭和33年9月26日の21時過ぎ、伊豆半島の南端を通過した狩野川台風は伊豆全域に大きな被害をもたらした。狩野川流域は源流域の天城から田方盆地までほぼ壊滅状態、
一部では12mもの濁流が発生したという。東海岸の伊東市も同様で、松川(伊東大川)の氾濫による水位の上昇は最高で4mを越した。
死者58名・負傷者732名・全半壊265戸・流失76戸・床上浸水1937戸という、空前の災害となった。

奥野鳥瞰 右:奥野ダム湖の周辺 東側からの鳥瞰    画像をクリック→拡大表示
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治水対策が最重要課題として検討されたが、大室山の西側を源流にして15km北の伊東港に流れ込む松川は高低差が大きく(現流域の標高は約420m)、しかも下流部の約2kmは流域に旅館や住宅が密集する伊東温泉の中心地なので大規模な改修が不可能、治水には上流部にダムを造る工事が不可欠と判断されていた。
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昭和47年(1972)に水道水源の確保を兼ねたダム工事の計画がスタート、昭和58年(1989)に土と石を積み上げた斜面で貯水を支える構造のロックフィル型ダムが完成し、湖底に水没する奥野地区から27所帯が移転した。
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並行して伊東市の鎌田と伊豆市の徳永(旧・中伊豆町)を結ぶ冷川峠(昔の柏峠)の難路を避けて南を迂回する中伊豆バイパスの建設も進み、こちらは昭和53年(1978)に完成して平成20年(2008)から無料開放となった。市街地にも近い、快適なドライブルートである。冷川峠も旧来のまま利用できる。
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鎌田から奥野ダム湖を経て徳永〜大見へ下るルートは古来から奥野道・修禅寺道の名で利用され、流人 頼朝 も北條館と伊東祐親館の往来に通った道である。この奥野には安元二年(1176)10月に伊豆・相模・駿河一帯の名だたる武士が集結し、伊東祐親 が主催して壮大な巻き狩りが行われた。
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最終日には宴会の余興として力自慢の武士たちが組み合った、と曽我物語が伝えている「角力場跡」は今では湖底に沈み、既にその姿を確認することはできない。
ダムの構造など詳細については 静岡県のサイト、ダムが完成する前の航空写真は こちら、同じく更に広域の航空写真は こちら で。


     

           左: 管理棟横の緊急用の放水口。左手にはダム建設場所の下流だったため水没を免れた数軒の人家右側には静かな公園が造られている。
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           中: 石を積み上げたロックフィルダムの下流側。建物横に放流用の水路、その横にダムの上部と下流の公園を結ぶ急傾斜の遊歩道がある。
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           右: ダムの上から下流を。正面は城山、その右下の地名は「城の平」、山裾の中伊豆バイパス(修善寺街道)の下には水没を免れた人家が10軒ほど
見える(もしかすると水没地域から移転した集落かも知れない)。


     

           左: ロックフィルダム南側の上流部分。湖の周囲には舗装した遊歩道があり一周すると5km弱、芝生広場や駐車場やトイレも完備している。
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           中: ダム堤体上の広い遊歩道を対岸方向から管理棟に向って撮影。もちろん全ての遊歩道は歩行者専用(自転車もOKらしい)だから安心だ。
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           右: ダムの上から上流方向には中伊豆を隔てる山並みが続く。湖水中央の岬には奥野ダム資料館(火・水・木と休日のみ開館、無料)が建つ。


     

           左: 対岸の岬にあるダム資料館(駐車場そばの管理事務所から約1km)から、堰堤の上流側を。遊歩道で湖水の際まで降りるのも可能。
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           中: 管理事務所と反対側の岸に小さな緑地があり「湖底のふるさとを想う」石碑が建っている。東屋やベンチもあるのでちょっと一服できる。
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           右: 石碑の裏側には水没した27軒の所帯主の名が刻まれている。ダムが完成したのは昭和58年、2012年現在で22年が過ぎている。


     

            左: 湖畔一帯は良く整備された公園になっている。ダム湖に水没する前の奥野集落には「相撲場」や「勢子立ち」と呼ばれる場所があった。
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            中: 湖畔に建つ相撲場跡のモニュメント。河津では「宴会と相撲の場所は河津」と主張しているが、状況証拠からは奥野と考えるべきだろう。
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            右: モニュメント付近には遊歩道が通り、上流一帯には梅が植樹されてダム完成と同時に芝生公園となった。平安末期、東国武者の夢の跡。


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            左&中: ダム湖の上流(角力場跡の100mほど下流)から、松川の上流(左)とダム湖側(右)。当時はもっと深く高低差も大きかっただろうが、
巻き狩りのベースキャンプが設けられ、 頼朝土肥實平伊東祐親河津三郎俣野景久 が歩いた頃の雰囲気は想像できる。
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            右:上流側からダム湖を。安元二年の秋に祐親が主催した巻き狩りは狩猟を楽しむと共に軍事訓練やデモンストレーションの目的もあった。


     

             上: 湖畔の中伊豆バイパスから冷川峠に登る落合川沿いの道路横に奥野神社がある。元々この場所だったと言う人もあり、水没区域にあったのでダム湖の
完成前に移設したと語る人もあって詳細は未確認。いずれにしろ旧奥野部落の鎮守だったのは間違いない。


     

           左: ダム完成前の奥野神社で、子供たちの記念写真。現在の社殿と形は似ているが細かい部分が異なる。やはり建て直されたのだろう。
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           中: 水没前の角力場跡、850年前の巻狩り後に河津祐泰や俣野景久が組み合った場所である。数百本の梅林があった、と伝わっている。
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           右: 水没前の写真。松川を囲む山の形から考えると現在のダムのやや上流付近だろうか。右手に見えるコンクリートの橋と流れ込みは冷川峠の方向
から松川に合流していた落合川、現在奥野神社が建っている下流部分だろう。


     

           左: 右側の修善寺街道(中伊豆バイパスルート)から和食の奥の坊(今も営業中かな)へ渡る橋。現在は松川左岸(画像の右側)に移転して
いるが、ダムの下にある奥野公園から500mほど下流地点から上流に向って撮影された写真らしい。
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           中: 護岸の石組みと堰堤から推測すると、現在は角力場の記念碑が建っている付近の松川と思われるが...それ以上は判らない。
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           右: 松川がダム湖に流れ込む地点の上流側にある「梅の広場」よりも更に上流だろう。この画像の左(下流)が左の写真に繋がるらしい。