頼朝 の子は男女を問わず短命である。承安元年(1170)に産まれた長男の
千鶴丸 (母は
伊東祐親 の四女
八重) は三歳で祐親に殺され、承久二年 (1178) に産まれた
長女の
大姫(母は
政子)は建久九年(1198)7月14日に20歳で病没、寿永元年(1182)に産まれ嫡男となった二男の
頼家 は元久元年 (1204) に23歳で
北條時政の討手に暗殺され、文治二年 (1186) に産まれた
乙姫(幼名は三幡・母は政子)は正治元年 (1199) に病没、建久三年 (1192) に産まれた三男
実朝 は
建保七年 (1219) 27歳で頼家の遺児
公暁に殺されている。頼朝の血を分けた5人の子は、平均寿命がわずか17歳である。
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ただし、伊達氏の祖とされる常陸入道念西の娘が産んだ
貞暁 は唯一の例外で、早く出家して高野山に登り俗界に関わろうとしなかった。一説に、実朝死没後に政子から
四代将軍就任を打診され(野心の有無を試したらしい)、片眼を抉り取って拒否した、と伝わる。以後の政子は貞暁に帰依し彼に対する疑念を捨てた、と。
ちなみに、貞暁は実朝を暗殺した公暁を仏法の弟子としている。享年は45歳だから天寿を全うしたと言うほどではないが。
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頼朝には男女を問わず我が子を溺愛する節が見えるが、
政子の方は頼家と実朝には冷淡に接していた、と言うよりも大姫への溺愛が激しかったためそう感じるのだろうか。
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頼家暗殺や実朝暗殺に関わったと断言する程ではないが、本心では関与したと信じている。
男子は全て北條一族の既得権擁護のために見捨てたと思えるのに、大姫には見境なしの愛情を注いでいた。芸能ニュースっぽく表現すると、頼朝に満たされなかった心の
空白を娘との接点に求めた、のかもね(笑)。岩船地蔵堂の地図は
こちら、亀ヶ谷坂切通しを扇ヶ谷側に下りきった線路の手前にある。