千葉山(せんようざん)法蓮寺は慶長十九年(1614)の創建で大乗院日相大徳を開山和尚とする日蓮宗、元々は周辺の寺の多くと同じく天台宗だった。本堂北側の墓所には
曽我祐信 の継室
万劫(満江、河津三郎祐泰の寡婦)の墓石 (自然石) があり、墓石の横には「管理者 別所字坊田 武藤家」の木柱がある。満劫が曽我に嫁した時に
河津から同行して曽我に定住した従者が武藤と安池、その末裔が墓守を続けているのだから、これが満劫の墓である信憑性は高い。
右:曽我祐信の下屋敷跡と満江の墓所 画像をクリック→拡大表示
祐信夫妻は建久六年 (1195) に出家し、曽我別所に大御堂を建てて兄弟の菩提を弔い、満劫は正治元年 (1198) 5月28日 (兄弟の祥月命日) に没した。その大御堂 (廟所) が後に法蓮寺に改まった、という事なのだろう。
本尊は妙法蓮華経 (って、創価学会か?) で左右に釈迦牟尼仏と多宝仏、それに四菩薩を従えている。
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また、境内の毘沙門堂には安永三年(1774)に小八幡(酒匂川河口近く)の海から引き揚げた毘沙門天像が安置されている。当時の住職日迂上人と漁師の双方の夢に毘沙門天が現れ、その言葉通りの場所で網に入ったと伝わっており、毎月17日を縁日としている。
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さらに満劫墓所の70mほど北側(公民館方向)の薬師堂には
行基 の作と伝わる薬師如来が祀られている。元々は山彦山(曽我山の旧名)の奥の佛体ヶ窪の堂にあり、戦火に焼かれて「焼け不動」と呼ばれていた像を移して法輪寺末寺の応福寺を建てて納めたが明治初期に廃寺となり、薬師堂のみが残ったという。
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応福寺は船が難破して小田原に漂着した唐人・葉七官の仲間が建てた庵が元になった。葉七官は慶長年間(1596〜1615)に仲間の十数人と小田原に定住した。
これが現在の小田原市唐人町
地図 の始まりになった、と伝わる。