土肥一族の菩提寺 萬年山城願寺 

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中村荘の荘司 中村宗平 から土肥郷を相続した二男 實平 は古くからあった密教寺院を持仏堂に改め、「万年の世まで家運が栄えるように」と願い万年山と号して体裁を整えたのが城願寺の起源である。實平と嫡子の 遠平 は重なる戦功によって安芸国に新領を得て本拠を移し、この地に残った庶流が菩提寺として守り続けたのだろう。その後は衰退したが鎌倉時代末期に大鑑禅師の弟子・雲林清深を招請し開山として中興、更に天正年間(織田信長の頃)に大州梵守(鎌倉海蔵寺の三世)が重興の開山となって曹洞宗に改め、現在に至っている。

  右:東の相模湾側から見た湯河原(土肥) 鳥瞰図  画像をクリック→拡大表示
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土肥實平・遠平親子は平家の滅亡後は守護職として四国・九州を統治したらしいが、史料を確認すると元暦元年(1184)には備前・備中・備後の守護職となり、播磨・美作を統治していた 梶原景時 の所領を侵略して訴訟を受け、徐々に権限を失った末に最後に残った所領は安芸国沼田荘の地頭職のみとなったらしい。
遠平は後に小早川弥太郎として吾妻鏡に登場している。小早川は頼朝から与えられた早川荘(現在の小田原・早川周辺)エリアであり、遠平は土肥と小早川という二つの顔を持っていたようだ。
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安芸国沼田荘では承久元年(1219)に、實平が遠平とともに遠平の妻である天窓妙仏尼(寺伝は源頼朝の娘としているが、実際は工藤祐経の室だった 伊東祐親の娘)を弔うために棲真寺(広島県三原市大和町平坂)を創建した記録が残っており、實平もその頃までは存命していた可能性が高い。
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遠平嫡男の惟平は本領の土肥を継承する一方で 平賀義信 の子を養子として小早川景平を名乗らせ、安芸国沼田荘を継承させた。やがて小早川氏は安芸国(広島)に本拠を移し、戦国大名として歴史に名を残すことになる。小早川氏の血脈が惟平の系か、或いは義信の系統は確認できない。
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建保元年(1213)5月に和田合戦が勃発した際の土肥惟平は相模中村党として和田義盛に与力して追討された。父の遠平が無関係を証明したたため土肥と沼田荘は失わずに済んだが、幕府中枢での地位は完全に失われた。穏やかに恵まれていた晩年とは言えない、らしい。
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  ※大鑑禅師: 漸修禅(北宋)に対し頓悟禅(南宋)を説いた中国禅宗六世で名は慧能(貞観十二年・638年〜先天二年・713年)。禅宗の祖と言われる。
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  ※雲林清深: 文永十一年(1274)〜延元四年(1339)。北條氏の招きで嘉暦元年(1326)に元から渡来した禅僧。鎌倉で建長寺・浄智寺・円覚寺、京都で
建仁寺・南禅寺の住職を歴任、また信濃の小笠原貞宗に招かれ飯田開善寺の開山和尚も務めている。


     

           左:千歳川河口近くのみかん山から湯河原の町並みを。左が城山・正面が箱根に続く幕山(626m)、星ヶ山(815m)の頂上が少し見える。
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           中: 萬年山城願寺の山門に続く参道。左に参拝用駐車場があるが全体に狭いためJRガードから直進して「城願寺参道」の石柱を左折せず、更に坂を
登って左手の本堂横に設置してある駐車場に停める方が良い(地図)。
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           右: 味のある風情の山門だが、スペースがないため銅製の仁王像は露天に建っている。境内は清潔で手入れも行き届いているのが嬉しい。


     

           左: 静かな佇まいの本堂と庫裏。この裏手(北側)200mの地下には東海道新幹線のトンネルが走り、土肥一族の廟所は本堂の左にある。
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           中: 本堂右の七騎堂は 真鶴の浜(別窓)から舟で逃げた 頼朝 主従が七人だった事を元にして、地元の「土肥会」が昭和49年(1974)に建立 寄進
したもの。頼朝主従は8人だったが、源氏にとって不吉な「八」を嫌った頼朝が實平に息子遠平の下船を命じ、遠平は運良く来合わせた 和田義盛
舟に救われた事になっている。もちろん史実とは何の関係もない謡曲だが、イヤな性格に描かれてるね、頼朝さん(笑)。
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           右: 左側から、安達盛長岡崎義実三浦義明 の弟)、新開忠氏(實平の二男實重の養父、後に深谷を領有)、源頼朝、土屋宗遠(實平の弟)、
土肥實平、田代信綱狩野茂光の孫)。
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昭和26年(1951)に土肥会20周年事業として湯河原の彫塑家・亀貝保氏に依頼、昭和28年(1953)に完成した。
しかし、田代信綱は堀口合戦の後に頼朝らと別れて狩野茂光や 北條宗時(時政長男)と函南に下り北條を目指した途中で祐親配下の民兵に囲まれて
逃げ切れずに自刃した茂光を介錯しているから、「七騎」のメンバーに加われる筈はない。この辺の物語は基本的にフィクションである。


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           左: 墓地の突き当りに土肥家累代の廟所が設けてある。平家や奥州藤原氏が滅びた後は實平も遠平も新領の安芸国沼田荘に移っており、二人が
承久元年(1219)に遠平室の天窓妙仏尼(寺伝では頼朝の娘だが、祐親の娘)を弔って棲真寺(三原市大和町平坂)を開基した記録がある。
既に相当の老齢であるため安芸で没したのだろう。また嫡男遠平も戦国大名小早川氏の祖として安芸に定着している。従って土肥に残ったのは
實平の庶流であり、城願寺の墓石は實平以降の同族を葬ったものがメインと考えるべき。
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           中: 一部の五輪塔は鎌倉初期のものだろうか、伊東にある祐親の墓や誓成寺の一族の墓に酷似している。祐親正室は實平の姉であり、工藤祐経に
嫁した娘を強引に離縁させ再嫁させた相手が土肥實平の嫡男遠平。
伊東と土肥(中村党)は源平に分かれて戦う破目に陥ったが、本来は強い縁戚関係にあった。
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           右: 中央の大型墓石群。左側の五層塔には嘉元ニ年(1304)7月、右側・六層塔右の宝篋印塔には永和元年(1375)6月の銘がある。


     

        上: 七騎堂右手の柏槇(びゃくしん)は實平手植えと伝わる。樹高約20m・根廻り約8m・目通り約6m、推定樹齢が約800年の巨樹である。
樹勢の衰えも見られず、見事に捩れて渦を巻くような幹の姿が素晴らしい。ビャクシンはヒノキ科の針葉樹で成長が遅く、巨樹に育つまで長い
時間を要する事が禅の修行に通じる、という。鎌倉臨済宗の 建長寺 にも樹齢740年の樹が見られる。
個人的には、建長寺の公式サイトは落ち着きがなくて好きじゃないんだけれど...。

この頁は2022年 8月 1日に更新しました。