段葛と二つの政庁(宇都宮辻子と若宮大路)と日蓮辻説法の跡 

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右:宇都宮辻子幕府跡から八幡宮周辺の鳥瞰     画像をクリック→拡大表示へ
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貞応三年(1224)に 義時 が、翌・元仁二年(1225)に大江廣元政子 が没した。鎌倉幕府の草創期を支えた三人が相次いで鬼籍に入り、義時を継いだ三代執権 北條泰時 は体制の刷新と意識改革(?)を図った、らしい。
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治承四年(1180)の頼朝鎌倉入り以来45年間利用した大倉御所を離れ、政庁を若宮大路と小町大路を結ぶ辻子に移転。嘉禄元年(1226)には四代将軍 藤原頼経 (当時八歳)がここで元服、貞永元年(1232)には泰時が御成敗式目を制定するなどしたが、更に11年後の嘉承二年(1236)には八幡宮寄りに移動して若宮大路幕府(地図)が執務場所になる。
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最近では移転ではなく敷地を広げて増改築したと考える説が有力になっている。新しい若宮大路幕府での政務は元弘三年(1333)に鎌倉幕府が滅亡するまで約97年間続けられた。時頼 が五代執権だった建長五年(1253)頃に 日蓮 が辻説法を行ったのは稲荷神社の南東100mの小町大路で、日蓮は若宮大路幕府から300m程の距離で政治改革を叫んでいたことになる。
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  ※辻子: 大路と大路をつなぐ小路を意味し、読みは「ずし」。宇都宮辻子の場合は若宮大路と小町大路を結ぶ小路で、宇都宮氏
の屋敷がこの小路に面していた事に由来する。
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  ※小町大路: 若宮大路の東側(筋替橋から材木座まで)の道が小町大路、西側の 壽福寺(別窓)の門前から 問注所跡 の前を通り、六地蔵(別窓)を経て由比ヶ浜に下る道が
今大路で、問注所跡筋向いの御成小学校は奈良時代の鎌倉郡郡衙(律令制下の郡役所)があった場所らしい。
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400mほど壽福寺寄りの右側にある巽神社は 坂上田村麻呂 が建てた葛原岡(現在の源氏山)の神社を 頼義 が移設したと伝わっており、現在は小学校の周辺が頼朝入府以前の中心地と考えられている。「小町通り」は鎌倉観光で賑わい始めた、昔の裏通り。


     

           左: 現在の段葛南端に建つ二の鳥居。他の二ヶ所と同様二の鳥居も関東大震災で倒壊、最南端の一の鳥居のみ旧来の石材に一部を補充して再建されたが、
二と三の鳥居はコンクリート製になった。宇都宮辻子幕府跡は鳥居から100mほど北の右側奥に位置する。
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           中: 段葛はここから八幡宮社頭三の鳥居まで500m続いている。吾妻鏡 養和二年(1182)3月15日が「鶴岡八幡宮の社頭から由比ガ浜までの
曲った道を直して参道を造った(原文は直曲横而造詣往道)」と書いているのは、二の鳥居と三の鳥居の間にあった「琵琶小路」を差す、らしい。
琵琶小路の位置は判然としないが多分 この通り (地図)、若宮大路の東側 ( 地図) に石造りの 琵琶橋欄干 (画像) が復元されている。
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現在の下馬交差点南には佐助川が西から東に流れ、川岸に琵琶を抱く弁才天が祀られていた(50m南のバス車庫横に標石)。この祠を避けて
「曲横」していたのが「琵琶小路」で、頼朝は段葛工事と同時に弁天堂を八幡宮に遷し参道を直線に改めた。40日後の吾妻鏡に記載された通り
「八幡宮前の水田(弦巻田)三町余りを池に改めた」際に池の岸に移したのだろう。段葛石碑の文面は下記の通り。
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段葛 だんかづら 一ニ置石ト称ス 寿永元年三月頼朝其ノ夫人政子ノ平産祈祷ノ為 鶴岡社頭ヨリ由比海浜大鳥居辺ニ亙リテ之ヲ築ク 其ノ土石ハ
北條時政ヲ始メ源家ノ諸将ノ是ガ運搬ニ従ヘル所ノモノナリ 明治ノ初年ニ至リ 二ノ鳥居以南其ノ形ヲ失ヘリ  大正七年三月建之 鎌倉町青年会
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           右: 二の鳥居両側の狛犬は昭和三十六年(1961)に小野田セメント(現在の太平洋セメント)が寄贈したもの。関東大震災で倒壊する前の写真には
台座しか写っていない。


     

           左: 雪ノ下教会横の路地奥に宇都宮稲荷神社の祠が建ち、その前に宇都宮辻子幕府跡の碑が置かれているだけで、政庁の面影はない。一旦若宮大路に
戻って左折、二の鳥居前のファミマを左折すると小町大路に突き当たる。左折すると間もなく右側に日蓮辻説法の跡が見えてくる。
更に進んだ左側の妙隆寺が南北朝時代の千葉氏10代当主胤貞の別邸跡と伝わる妙隆寺。
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           中: 若宮大路と小町大路を宇都宮邸に沿って結ぶ小道の名が宇都宮辻子。政庁敷地南側がこの辻子に面していたから、宇都宮辻子幕府と呼ばれる。
宇都宮氏邸は「辻子」を挟んで幕府政庁の南側にあったことになる。さすが名門御家人、屋敷は一等地だ。
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若宮大路に建つ段葛石碑の文面は下記の通り。
鎌倉幕府ハ初メ大蔵ニ在リシガ 嘉禄元年政子薨シテヨリ之ヲ他ニ遷サントノ議起リ 乃チ時房泰時等巡検評議ノ末 同年十一月此ノ地ニ造営
十二月将軍藤原頼経此ニ移リ住ス 爾後嘉禎二年頼経再ビ之ヲ若宮大路ニ遷セルマデ天下ノ政令ノ此ニ出ヅルモノ凡テ十二年ナリ
                                               大正十年三月建之  鎌倉町青年会
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           右: 日蓮 の辻説法跡(地図。松葉ヶ谷に住んで鎌倉での布教を開始した日蓮はこの一帯で頻繁に辻説法を行い、社会の危機を訴えた。
文応元年(1260)7月に元・五代執権の実力者 北條時頼 に 「仏法に基づく政治の実現」 を求めて 立正安国論(wiki)を提出、既存宗教と
幕府の双方から弾圧と迫害を受けることになる。

建長五年(1253)に安房から鎌倉に入った日蓮の拠点は大町四丁目〜材木座二丁目の松葉ヶ谷で、安国論寺 (wiki) が「松葉ヶ谷草庵の跡(地図)」
とされている。 日蓮らは他宗の襲撃を警戒して 長勝寺 (wiki) や 妙本寺(公式サイト・訪問記も参考に) など周辺の何ヶ所かを移動しつつ人通りの多い
場所を選んで連日の辻説法を続けていた。
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小町大路の北側(八幡宮側)には御家人の屋敷が多く、南側は和賀江島からの物流ルートだったため政治と商業の中枢で主義主張をアピールする
メリットも大きく、小町通の「日蓮辻説法の跡」の周辺も適地である。他にも大町二丁目の本興寺(公式サイト)にも辻説法跡の碑が建っている。
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そもそも「辻説法の跡」を裏付ける資料はなく、明治時代後期に宗教家の 田中智学 (wiki) が霊蹟と定めたもので、特に根拠はない。
当初の田中智学は「夷堂橋(本覚寺山門前(地図)付近と考えたが、空き地が確保できなかったため現在地に定めた、と。
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※商業の中枢: 鎌倉時代での商業活動にも一定の制約があった。建長三年(1251)12月3日の吾妻鏡に以下の記載がある。
鎌倉各所での商いについて禁制の沙汰があった。指定の場所以外では厳禁するとの内容である。大町・小町・米町・亀谷辻・和賀江・
大倉辻・気和飛坂(化粧坂)山上が指定の場所で、更に牛を小路に繋ぐのを禁止し小路の清掃を義務とする、と。


     

           左: 二の鳥居北側から真っ直ぐに続く段葛を。4月の初旬には桜の名所となり、両側に続く提灯の奥にライトアップされた八幡宮が浮かぶ。
防衛上の目的から段葛の道巾は八幡宮に近付くほど狭く造ったと言われるが、軍事上どんなメリットがあるのかは疑わしい。
個人的には遠近法を取り入れた美しさ、或いは壮麗さを表現しているように思う。
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現在では若宮大路の巾を何ヶ所も発掘調査するのは無理だが段葛の巾を実測してみた。八幡宮前の北端で290cm、現在の段葛が始まる
500m南の二の鳥居前で450cm。その比例で計算すると八幡宮前から1100m南の一ノの鳥居跡(浜の鳥居、下馬交差点から200m南)の
地点では実に630cm、北端に比べて倍以上に広がる。現在の段葛が創建当初の寸法通りだと仮定すれば、の話だけど。
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若宮大路造成は段葛を八幡宮参道として更に整備したもの。幕府開設に伴って人口が爆発的に増え、それに伴う生活廃水で湿地化した道を一段高くし、
両側に側溝を掘って環境を改善する目的があった。三の鳥居(八幡宮前)から約100m南での発掘調査に拠れば道路巾は約33m。
これは鎌倉駅近くで段葛が始まる場所の両側歩道を含めた巾に概ね等しい。
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両側には巾3m×深さ1.5mの排水路(堀)を設け、東側の土手は西側より高かったとされるから一種の防衛機能は持っていたのだろう。
面白いのは大路に面した建物の配置で、出入口は堀・つまり若宮大路を背にして建ち、出入り口を大路に面して設けるのを禁止していたらしい。
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※防衛機能: 頼朝が鎌倉に本拠を置いた時点での東側に接している勢力は三浦氏・渋谷氏・江戸氏・千葉氏・上総氏など支配下の豪族のみ。
従って西から攻め込む敵に対しての最終防御線を若宮大路に想定したのだろう。元弘三年(1333)の鎌倉陥落の際も新田勢の
主力は巨福呂坂・化粧坂・極楽寺坂・稲村路など西側から攻め込んでおり、東側から攻め込んだ敵との戦闘は記録されていない。
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           中: 幕府政庁は嘉承二年(1236)に宇都宮辻子から敷地北側の八幡宮寄りに移転した。新しい若宮大路幕府(地図)では元弘三年(1333)に
鎌倉幕府が滅亡するまで政務が続けられたことになる。すぐ東側には北條執権邸(現在の 寶戒寺・別窓)が
あり、500m東の山裾に向えば北條一族最後の地となった 東勝寺跡(別窓)に至る。
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小町大路を北に進み、宝戒寺手前の路地を左に入り約100mで若宮大路幕府跡の碑、黒塀沿いに左へ50m歩くと大仏次郎旧邸を利用した
大佛茶廊(公式サイト)がある。休日のみの営業で、喧騒を離れ車の入らない路地を歩いて古き良き日の雰囲気を味わうのも悪くないが、今年
(2019年)8月の閉店となったのは残念。
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           右: 大正七年(1918)に鎌倉町青年会が建立した碑文に曰く、
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鎌倉ノ幕府ハ始メ大蔵ニ在リシガ 嘉禄元年政子ノ薨ズルト共ニ将軍藤原頼経之ヲ宇都宮辻子ニ遷シ 後十一年ニシテ嘉禎二年再ビ此ノ地ニ遷ス
爾来九十八年頼経以後六代ノ将軍相続キテ政ヲ此ニ聴ケリ 元弘三年新田義貞ノ鎌倉ニ乱入スルニ及ヒテ廃絶セリ
                                        大正七年三月建之  鎌倉町青年会

この頁は2022年 8月 2日に更新しました。