悲運の武将 一條忠頼の史蹟 

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        右: 伝・一條忠頼墓所と館跡と伝わる寳林寺 鳥瞰
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平家物語に載っている忠頼謀殺は元暦元年 (1184) 4月26日。 同年1月には大津で 木曽義仲 が滅亡、3月20日には
一ノ谷合戦で壊滅的な損害を受けた平家軍が屋島に撤退している。
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  ※義仲滅亡: 吾妻鏡1月20日に「一條忠頼らは (大津から瀬田に逃走した) 義仲を追撃し近江国粟津近くで相模国の住人
石田為久が義仲を討ち取った。」との記載がある。
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直近の軍事的緊張が収まり、京の治安維持を担当した忠頼は鎌倉に凱旋。一時系列で書くと...
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    3月27日  忠頼 武蔵守補任(尊卑分脈および吉記(吉田経房 の日記)3月分逸失で詳細不明。
    4月26日  忠頼謀殺(吾妻鏡では6月16日)
    6月20日  5日の小除目の写が鎌倉着。駿河守に源廣綱、武蔵守に平賀義信、頼朝申請通り。
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つまり義仲追討などの功績で忠頼が武蔵守に叙された直後に殺され源廣綱が補任、更に忠頼叙任の記録まで失われた事になる。
日付の改竄と公文書の行方不明って昔から頻発してたんだね。
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忠頼は父・信義の代理として駿河国(静岡県東部)を統治した。一説に、忠頼が駿河支配の実績を元に武蔵守を望んだ、或いは朝廷が源氏勢力分断のため頼朝が容認する筈
のない武蔵国支配権を忠頼に与えた可能性もある。平家の衰退に続いて義仲の滅亡、義経の排斥、そして甲斐源氏の落日。

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左: かつて忠頼邸があった、現在の甲府城鳥瞰   画像をクリック→拡大表示
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甲府駅のすぐ前で駐車場に苦労するのが難点。個人的には1.5Km南の 遊亀公園 (公式サイト・動物園と無料Pあり、地図) から
歩くのが好きだ。バス便もあるし、車に自転車を積んでいくのも悪くない。
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信義の嫡子忠頼謀殺(1184年)、二男 武田 (逸見) 有義 の失脚(1188年)、四男 板垣兼信の失脚流罪(1190年)。
信義の次弟 加賀美遠光 は頼朝への従属を選び、遠光の長男 秋山光朝は 平重盛 の娘を娶り鎌倉軍への合流が遅れたのを理由に追討 (1185年) 、二男 小笠原長清 と三男の南部長行と四男の加賀美光経と五男の於曽経行は頼朝御家人となった。
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光朝追討軍の先鋒を務めたのは実弟の小笠原長清。頼朝が求めたのは完全な服従か滅亡かの二者択一だった。武田氏棟梁の 信義
文治二年(1186)2月に失意のうちに病没した、と伝わる。異説はあるが実態は大同小異だ。
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忠頼の墓所は甲府盆地南西部の増穂町 (現在は富士川町) 中心部から約2km、赤石温泉へ向う途中の山裾で妙楽廃寺 (忠頼開基?)
の跡・あるいは忠頼の出城だった川久保城跡とも推定されている。館があったのは1kmほど北東にある法林寺の位置とされているが、これは別邸か下屋敷跡だろう、と思う。
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法林寺の北側は加賀美遠光の嫡男秋山光朝(忠頼の従兄弟)の所領であり、しかも忠頼の本来の居館である一條館(現在の甲府城址)からは20km近く離れている。
西側は南アルプスの急峻な山岳地帯なのでここが出城とは考えにくい。
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一條小山の館(現在の甲府城址)は落飾した忠頼の室が屋敷を尼寺に改めて夫の菩提を弔った、と伝わる。130年後の正和元年(1312)に甲斐守護職となった武田信時
(信光→ 信政→ 信時)が真教和尚に帰依して 時宗(wiki・仏教の宗派)一蓮寺に改めて弟の宗信を開基に、同じく弟の宗時を出家させて開山和尚とし時宗道場一蓮寺とした。
武田氏の滅亡後は徳川による甲府城(舞鶴城)造営のため一蓮寺は一條小山から1.5kmほど南、現在の遊亀公園北側に移転し、そのまま現存している。
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明治七年(1874)に敷地の一部を県に移管し遊亀公園と命名。鶴が舞う北の舞鶴城公園 (甲府城址) に対して亀が遊ぶ南の遊亀公園とは実にセンスの良い命名だけど、
鎌倉の鶴岡と亀谷のパクリかも知れない。更に大正六年 (1917) に甲府市に移管、2年後には付属動物園が開かれた。公園を含む敷地全体が一蓮寺の寺域だった。
    妙楽廃寺跡の地図忠頼館跡(法林寺)の地図秋山光朝館跡(熊野神社と光昌寺)の地図一蓮寺の地図 などを参考に。


     

           左: 遊亀公園から芝生越しに一蓮寺の本堂を見る。本堂の裏手(北側)に一蓮寺幼稚園を併設していたが、平成30年に廃園となった。
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           中: 収蔵の「一蓮寺過去帳」には室町初期から江戸期の広い階層の死没者の法号・没年月日・姓名が記載され、山梨県の中世史研究には
欠かせない資料らしい。2006年に「すずさわ書店」からA5版・553頁・10500円で出版された。地元の図書館で見られるか?
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           右: 境内横には遠光寺の500mほど南にあった般舟院(一条小山にあった頃の一蓮寺支院で明治初期に廃寺)の跡から出土した墓石群が
保存されている。南北朝〜江戸期のものとされるが、もう少し古い形式の五輪塔も含まれているような気が...。


     

           左&中: 忠頼の館跡と伝わる日蓮宗の妙廣山寶林寺。この地域は巨摩郡大井荘に属していたらしいが、妙楽寺同様に詳細は全く判らない。現在の地番は
富士川町舂米(つきよね)、「春」ではなく「日」の代わりに「臼」を書く。臼で精米して朝廷の大炊寮や内蔵寮に納めた「租」の一種が
この名の始まりらしい。「つきよね」或いは「つきしね」の地名は全国に点在しているのも面白い。
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           右: 寶林寺鐘楼横から見る甲府盆地北側の山並。左隅に八ヶ岳が微かに見える。手前左の山裾を過ぎた1.5km北は光朝の領地秋山郷。


     

           左: 山麓の新利根川近くから墓所のある斜面を撮影。中央に微かに見える白いポールが目印で、車でも入れるが道はかなり狭い。
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           中: 墓所のある高みが妙楽寺の跡と伝わっている。忠頼の菩提を弔って創建されたらしいが、残念ながら更なる由緒などは伝わっていない。
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           右: 墓所の右隅に妙楽寺跡の石碑が建てられている。唯一の収穫は1km北東の宝林寺に忠頼の館があったとの情報が得られたこと。


     

           左: 石段を登った平場が墓所。石垣の下にも古い石塔や五輪塔が残されている。忠頼縁者の墓か或いは住僧の墓か、一切は不明だ。
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           中&右: 山梨県建立の石塔の横に苔むした五輪塔が二基、片方は基台(地輪)が失われている。ただし...忠頼の墓標である物証はない。


     

           上: 要するに忠頼所縁の寺があったのだが石塔が誰のものかは不明、発掘された中で一番立派な五輪塔を忠頼と決めただけの話だろう。
出土品が文化財に指定される場合には良くあるケースなので額面通りには受け取れないが、昔日の雰囲気は確実に味わえる。


     

           上: 墓所の4km東で釜無川と笛吹川が合流し甲府盆地南端の富士川となる。右に冠雪の富士山、左には甲武信ヶ岳に続く山並みが見える。

この頁は2022年 8月 6日に更新しました。