鎌倉時代が動き出す...伊豆 蛭ヶ小島 

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           左: 北側の水田から蛭ヶ小島を遠望。東(画像背後)には後北条氏の要害として小田原が落城するまで豊臣軍の猛攻に耐えた韮山城の高地が見える。
西1.5kmには狩野川が流れ、その手前に北條時政邸の跡が発掘・保存されている。
 
           中: 現在の蛭ヶ小島は観光向けに整備した史跡公園。20台ほど停められる駐車場やトイレ、無数の石碑、小さな茶店などが整備されている。
 
           右: 蛭ヶ小島周辺からは住居の痕跡などは発見されず、ここが頼朝の流刑地だった可能性は否定されている。今は観光用の 頼朝 政子の像が佇むのみ。
平家物語 七十五 文覚荒行は「そもそも、かの頼朝と申すは、去)る平治元年十二月に父の左馬頭義朝の謀反によって、年十四歳と申しし永暦元年
三月廿日、伊豆国蛭島へながされて、廿余年の春秋をおくりむかふ。」
と書いているから、この周辺が流刑地だったのは間違いない。
 
ただし頼朝がこの近辺に住んでいたとしても数年間程度だろうし、800年の間には狩野川の氾濫による侵食も繰り返されていた、と思う。
「住居跡が確認できない」=「住居がなかった」とは必ずしも断定できない。

 
田方平野 右:北側から見た韮山史跡の所在地  画像をクリック→拡大表示
 
史跡公園の「蛭ヶ小島」は水田に囲まれ、200m東が高地。北に迂回して切り通しを抜けると韮山城の防塁から城池公園へ、更に幕末の伊豆代官・江川太郎左衛門邸を経て、伊豆目代を名乗った 平兼隆の舘跡(推定)を過ぎて兼隆の菩提寺景雲山香山寺(別窓)に至る。
 
蛭ヶ小島から伊豆の目代を名乗った平兼隆の館までは約500m、時政の 北條館(別窓)までは約1500m。伊豆箱根鉄道の韮山駅から僅か10分の徒歩圏内に位置して案内標識も判りやすく、駐車場の隣接した小さな緑地公園など周辺を散策する環境にも優れている。
 
史跡公園の片隅には近在の篤志家が寄付した「蛭島の夫婦像」という名の銅像が立っている。「政子、私はここ韮山で挙兵し源氏の再興を目指そうと考えている」とか何とか言うシーンを表現したかったのだろうけど...
個人的には観光客に阿るフィクションは好きじゃない。そもそも蛭ヶ小島が流刑地だった根拠は希薄なのだが、まぁ地域振興の新しいシンボル、という事か。
 
  ※韮山城: 推定される築城時期は文明年間(1469〜1486)、堀越公方足利政知の家臣・外山豊前守が小規模な砦を造ったのが最初とされる。
延徳5年(1491)に伊豆を制覇した伊勢新九郎盛時(後の北条早雲)が本格的に整備し、伊豆と相模の全域に勢力を広げた後もここに
留まって終生の居城とした。天正年間に至って北条氏の本拠・小田原城は豊臣秀吉に侵攻されるが、北条三代当主氏規の四男で猛将として
名高い氏規が10倍の敵にも屈せず篭城戦を展開し、百日間も戦った後に開城して歴史を閉じた。
 
  ※江川太郎左衛門: 韮山の世襲代官。頼朝挙兵に協力して韮山の管理権を得たと称し、時代と共に変遷する支配者に仕えて世襲代官となった。
代々の当主は全て太郎左衛門を名乗っており、特に反射炉を造り国防の整備に尽力した36代の江川英龍が名高い。彼は食客として
逗留していた国学者の 秋山富南に命じて蛭ヶ小島の位置を推定させ、現在の場所に「蛭島碑記」を建造し頼朝の流刑地として定着
させた。学術的には平安末期の遺物は発掘されておらず、現在ではここが頼朝の居住地ではなかった事が定説となっている。

 
     

           左&中: 史跡公園の中央に建つ蛭島碑記。寛政二年(1790)に秋山富南の推測で定められた最初の碑、「頼朝の流刑地・蛭ヶ小島」の原点だ。
 
           右: 明治26年(1893)に豆州誌稿を増訂した萩原正夫が建てた秋山富南の顕彰碑。この二つは左下に載せた昭和初期の写真にも写っている。


     

           左: 画像の出典は昭和初期の絵葉書。秋山富南顕彰碑と蛭島碑記をこの角度で撮影すると富士山は見えないから適当に加筆したらしい。
 
           中: 寛政12年(1800)に編纂された全十三巻の地誌「豆州志稿」の原本(ただし拡大画像は明治26年(1893)に編纂された全十七巻の増訂版)。
安久村(現・三島市)の学者秋山文蔵(富南)が著した原本は 三島市郷土資料館 (別窓)の三階に展示してある。
 
           右: 旧・安久村の生家近く(子孫が現存)に残る秋山富南の墓と顕彰碑。12年の現地調査に基いて完成したのは78歳の高齢だった。
 
上記の絵葉書には富士山を背景にして大きな松が一本、その根元に「蛭島碑記」がある。左側の高い石碑は明治26年に豆州誌稿の増補版を執筆した萩原正夫が
原著者の秋山富南を称えて建立したもの。韮山町の文化財に指定されている「蛭島碑記」は江川邸に寄寓していた豆州志稿の著者秋山富南が碑文の草案を起し、
代官江川太郎左衛門の命令を受けた家臣・飯田忠晶の差配で寛政二年(1790)に建立した。
 
この時点では既に頼朝配流地の正確な場所は不明だったが、富南が推定した場所に過ぎない「蛭ヶ小島」には次々と石碑が建てられ、やがて「頼朝の流刑地」と
して定着してしまう。蛭ヶ小島のある田方平野の西側には狩野川本流が流れ、更に西に連なった山並みが相模湾との間を隔てている。狩野川は天城の源流部から
駿河湾まで20数kmの流域に巾3〜5kmの肥沃な穀倉地帯を作り、時に暴れ川となって多くの中洲を残した。蛭ヶ小島はその一つである。

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           左: 狩野川の古流路想像図には下記の記載がある(出典は国交省だが作図者は不明、根拠となる資料も見当たらない)。
地図の点線が推定される古い流路で、守山の左を通るように治水されたのは1200年頃、北條一族が鎌倉幕府の実権を握り始めた時代を指している。
それまでの狩野川は幾筋にも流れを変えていて、蛭ヶ小島はその中に残る中州だった。
 
この説明は国交省の資料「 水害と治水事業の沿革 」に記載されている(概略は下記)。
 
狩野川は流域の地形・気候条件のため古来より洪水に悩まされており、治水事業は田方平野を洪水から守るため鎌倉時代に守山を開削し、流路を守山の
西に付け替えたのが始まりといわれている。
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国交省の窓口に問い合わせても「守山開削説」の明確な根拠は不明で、古流路の位置も具体的に指定していない。狩野川の流路は昔から変っていないとする
説や、実際の蛭ヶ小島は当時の狩野川の流路から考えてもっと韮山駅寄り(西寄り)に位置していたのでは、と考える説もある。
更に地質学的な調査に拠れば守山の東側が恒常的な流路だった事を示す事象は確認できなかった、など諸説紛々としている。
 
           中: 昭和33年(1958)の狩野川台風で水没した田方盆地。修善寺駅の付近から下流の沼津に向かって撮影したらしい。手前中央の白い建物は大仁駅に近い
東芝テックの工場(1950年開設)と思われる。鎌倉時代には無関係だが、大仁温泉近くで休養していた昭和32年の菊花賞馬ラプソディが鉄砲水に流され、
翌日に傷だらけで歩いているところを救出されたが、一緒に流された厩務員は死亡した。当時5歳で絶頂期だったラプソディは精神的ダメージのためかレース
には復帰できず、そのまま台風の翌年に引退した、と。
 
天城地域では土石流の被害が大きく、中流の修善寺地区から函南と沼津の南部が水没した。修善寺町(現在の伊豆市)の死者470人、狩野川流域全体の死者
と行方不明者は800人以上、蛭ヶ小島一帯も完全に流失している。頼朝が住んだ平安末期にも災害は頻発したのだろう。
 
           右: 韮山城本丸跡から見た田方盆地。中央の白いビニールハウスの左奥が蛭ヶ小島史跡公園、背景中央が守山、右が葛城山。実際の蛭ヶ小島が何処だったにせよ、
頼朝が韮山周辺に住んだのは伊豆に配流されてから長くても4年ほどと推定される。厳密には史跡と言うよりも流罪のシンボル的な場所だろう。
いつか古い地図や韮山周辺の地誌や伝承も漁ってみたい、とは思うが。
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※伊豆国蛭島: 平家物語 巻第五 「文覚荒行」の記述が「蛭島」の初見(下記)。
 
そもそも頼朝と申すのは去んぬる平治元年(1159)十二月に父左馬頭義朝の謀反によって年十四歳と申しし永暦元年(1160)三月二十日
伊豆国蛭島へ流されて二十余年の春秋を送り迎ふ。