最澄(伝教大師)が東国布教に向かう途中の延暦九年(790)3月にこの地に立ち寄り、自ら刻んだ聖観音立像を本尊として山腹に壮大な七堂伽乱を創建したのがこの寺の始まりと伝わる。創建当時は末寺が百余りで寺領は五千俵、山麓も含めて繁栄したが、天正二年(1574)に信長の兵火によって全てが灰燼に帰した。
.
慶長元年(1596)には一部が再建されたが承応元年(1652)には落雷により再び焼失、湿地の上に交通の便も悪いため、万治元年(1658)に西側の麓である現在地に移った。本尊は聖観音立像(平安初期の作・141cm)で、ここには平治の乱での負傷が元で没した
朝長の位牌も残されている。
..
多地方は後に東大寺領となり、大井荘と呼ばれた。青墓の長者・大炊兼遠(1105〜1161)の娘延寿は
義朝 の寵愛を受けて夜叉御前を産んでいるから兼遠とその息子たちは源氏の家臣であると同時に外戚でもあった。現在の圓興寺周辺の地図は
こちら。