最も古い曽我物語の真名本 (まなぼん) や吾妻鏡が書いた五郎丸に関する記述はこれだけだが異本の多くが
「女の着物を羽織り油断させた五郎丸が後から組み付いて」と書いている。
更には
「女装は武士にあるまじき卑劣な行為とされ甲斐に流された」と。これは明らかに後世軍記物語の脚色だが、南アルプス市の野牛島 (やごしま) には「鎌倉御所五郎丸の墓」と
彼の護持仏や観音菩薩像 (実際には地蔵菩薩らしい) を祀った観音堂 (または地蔵堂) が建っている。
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江戸期の書物「扁額規範」には
「五郎丸は京都比叡山の稚児だった。師匠の仇を殺して都を離れ 一條忠頼 を頼って甘利荘(現在の韮崎)に住んだが、忠頼が頼朝に殺されてからは
頼朝に仕えた。75人力の猛者」、と書いている。
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という経緯で、流された場所が昔の主人一条忠頼の本領だった南アルプス市の野牛島。歌舞伎や浮世絵の「曽我もの」には欠かせない脇役・五郎丸はここに土着して一生を送ったと。
面白いことには横浜市西区の御所山町にも五郎丸の供養墓とされる五輪塔があり、伝承では
「曽我兄弟に祐経の館を教えて仇討ちに協力したのが御所五郎丸」、としている。
話がひどく支離滅裂で次第にダイナミックになってるなぁ...。