曽我五郎時致を捕らえた御所五郎丸の墓 

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【 吾妻鏡 建久四年(1193) 5月28日 】
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子の刻 (深夜12時頃) に、故 伊東次郎祐親法師の孫 曽我十郎祐成五郎時致 が富士の狩宿で 工藤祐経 を殺害、備前国の住人吉備津宮神官の王籐内も討ち取られた。
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彼は平家の家臣である瀬尾兼保に与した疑いで留置され、去る20日に祐経の証言で本領を安堵されて帰国の途に着いたが、祐経の気持ちに謝するため途中で引き返し酒を呑み
歓談して同宿していた。同宿した遊女の手越少将と黄瀬河の鶴亀らが泣き叫び、兄弟が仇討ちの名乗りを挙げたため大騒ぎになった。
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兄弟によって平子平右馬允・愛甲三郎・吉香小次郎・加藤太・海野小太郎・岡部彌三郎・原三郎・堀籐太・臼杵八郎が負傷した。宇田五郎らが殺され、十郎祐成は 新田忠常
討ち取った。五郎時致は頼朝の狩宿目指して走り、頼朝は剣を取って立ち向かおうとしたが左近将監能直が押し止め、その間に小舎人童の 五郎丸 が五郎時致を取り押さえた。
捕縛された五郎時致は大見小平次が預って騒ぎは鎮まり、和田義盛と梶原景時が命令を受け祐経の死骸を検分した。工藤瀧口武者祐継の息子である。
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最も古い曽我物語の真名本 (まなぼん) や吾妻鏡が書いた五郎丸に関する記述はこれだけだが異本の多くが「女の着物を羽織り油断させた五郎丸が後から組み付いて」と書いている。
更には「女装は武士にあるまじき卑劣な行為とされ甲斐に流された」と。これは明らかに後世軍記物語の脚色だが、南アルプス市の野牛島 (やごしま) には「鎌倉御所五郎丸の墓」と
彼の護持仏や観音菩薩像 (実際には地蔵菩薩らしい) を祀った観音堂 (または地蔵堂) が建っている。
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江戸期の書物「扁額規範」には「五郎丸は京都比叡山の稚児だった。師匠の仇を殺して都を離れ 一條忠頼 を頼って甘利荘(現在の韮崎)に住んだが、忠頼が頼朝に殺されてからは
頼朝に仕えた。75人力の猛者」
、と書いている。
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という経緯で、流された場所が昔の主人一条忠頼の本領だった南アルプス市の野牛島。歌舞伎や浮世絵の「曽我もの」には欠かせない脇役・五郎丸はここに土着して一生を送ったと。
面白いことには横浜市西区の御所山町にも五郎丸の供養墓とされる五輪塔があり、伝承では「曽我兄弟に祐経の館を教えて仇討ちに協力したのが御所五郎丸」、としている。
話がひどく支離滅裂で次第にダイナミックになってるなぁ...。


     

           左: 野牛島(やごしま)の観音堂のビャクシンが目印で、墓はその裏手 (地図) 、道が狭いので諏訪神社から徒歩の方が間違いない。ちなみにビャクシンは
五郎丸が挿した杖が成長したもの。樹齢400年だから計算は合わないけど(笑)。樹高10m、目の高さの周囲3.3m。
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           中: 観音堂に地蔵菩薩が祀られているのも変だが..毎年7月23日には五郎丸を供養する野牛島地区の祭りが開かれているらしい。
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           右: 長さ80cmの横石と、同じサイズの墓石がセットになっている。刻まれた文字の詳細を確認しなかったのが少し心残りだ。

この頁は2022年 7月13日に更新しました。