【 医王寺について 】
平安時代の末期、
佐藤基治 あるいはその父(季治・師治)が大鳥城を居館に定める際、眼下に見える薬師堂を整備して新たに堂宇を建て、医王寺
※と改めて菩提寺に定めた。治承年代(1170〜1180年)と思われるから
三代秀衡 の時代、当主はたぶん基治だろう。基治の継室・乙和子は秀衡の従姉妹、娘の藤の江は秀衡の三男忠衡に嫁して強い主従関係を結んでいた。
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医王寺は福島交通飯坂線の医王寺前(JR福島駅から9駅 20分、終点飯坂温泉の2駅手前)から約1km、駐車場完備。拝観は宝物館を含め300円(8時半〜17時・冬は16時)。
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医王寺を称する寺は全国各地にあり、ほとんどが本尊として薬師如来(別名を大医王仏)を祀っている。石川県金沢市と富山県南砺市の境にある日本百名山の一つ医王山は古来から薬草を産したため名付けられた。医療を司る如来である。
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基治夫妻の廟所横にある「乙和の椿」は二人の子を失った母の悲しみが乗り移って西側・左半分の蕾が咲かないまま落ちてしまうそうだ。花期に確認した訳じゃないから真偽は
不明、またなぜ半分だけなのかも判らないが、元禄二年(1689)5月には奥の細道を旅する芭蕉一行が立ち寄っている。
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月の輪のわたし※を越えて、瀬の上といふ宿に出づ。佐藤庄司が旧蹟は、左の山際一里半ばかりにあり。飯塚の里鯖野と聞きて、尋ね尋ね行くに、丸山といふに尋ねあたる。是れ庄司が旧舘なり。麓に大手の跡など、人の教ゆるにまかせて涙を落とし、又かたはらの古寺に一家の石碑(墓)を残す。中にも二人の嫁がしるし、先ずあはれなり。
女なれどもかひがいしき名の世に聞えつるものかなと、袂をぬらしぬ。墜涙の石碑も遠きにあらず。寺に入て茶を乞えば、義経の太刀※弁慶が笈をとどめて什物とす。
五月朔日(一日)のことなり。その夜飯塚に泊る。 笈も太刀も 五月にかざれ 紙幟
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と芭蕉は書き残している。句は「端午の節句だから弁慶の笈も義経の太刀も紙幟と共に飾って欲しいものだ」ほどの意味、か。
ただし、曽良の旅日記に拠れば一行は何故か本堂に入れず、従って寺宝の「義経の太刀弁慶が笈」も拝観していない。「二人の嫁がしるし」とは一行が前日に見た白石市斎川の甲冑堂
※が収蔵する木像の事で、芭蕉はこれと混同か意図的に誤記したらしい。現在薬師堂の近くに建つ乙和御前と嫁二人の石像はごく近年の物だし、本堂にある甲冑姿の二体も昭和三十七年(1962)12月の製作だから芭蕉が見た筈はない。芭蕉のフィクションと考えるのが妥当か。
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※月の輪の渡し: 阿武隈川を渡る月の輪大橋の東北側が渡しの跡
地図。芭蕉一行は南の文知摺(もじずり)から来て川を渡り瀬の上宿に入った。
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※義経の太刀: 戦前までは間違いなく存在したが終戦後に米軍が接収したまま戻らず、行方不明になっている。鬼畜米英(笑)だ!
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※斎川の甲冑堂: 白石市の
田村神社 甲冑堂 にあるが、明治八年(1875)に(たぶん芭蕉が見たと思われる)甲冑を着けた二人の嫁の像と共に焼失、
昭和十四年(1939)に再建した。像は宮城県出身の彫刻家・小室達(仙台城本丸の伊達政宗騎馬像(供出後の復元品)の作者)の
製作による。説明には二人の嫁が見せた相手は基治とあるが他の伝承の大部分は兄弟の生母・乙和御前としている。