佐藤庄司一族の菩提を弔う医王寺 

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瑠璃光山医王寺の宗派は真言宗、牡丹で知られた奈良の 長谷寺(公式サイト)を総本山とする豊山(ぶざん)派に属し、宗祖は空海(弘法大師)。
大鳥(鳳)城址の南1km、飯坂温泉の中心地から2km南西(地図)に位置する佐藤一族の菩提寺である。創建は天長三年(826)、玄心僧都が空海の刻んだ薬師如来像を祀った草堂を建てたのが最初と伝わるから、俘囚を指揮して長く戦い 坂上田村麻呂に降伏したアテルイ が刑死した24年後、朝廷の支配が陸奥国にほぼ定着した頃となる。
薬師如来像は佐藤一族の念持仏として奥の薬師堂に祀られ、「鯖野のお薬師様」として信仰を集めている。
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  ※念持仏: 個人が帰依し礼拝する仏像。一般的には小型で通常は厨子などに安置するが、武士が携帯して戦場に赴く例も多かった。
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  ※鯖野: 飯坂温泉を発見した鯖湖親王(素性不明)を祀る祠があったと伝わる。温泉街中心にある 鯖湖湯(公式サイト)はヤマトタケルが入浴した伝承も
あり、「奥の細道」を歩いた芭蕉も立ち寄っている名湯。大正四年(1915)に竣工した十綱橋(下記)と並んで温泉街のシンボルになっている。

十綱橋
右:飯坂温泉のシンボル 摺上川に架かる十綱橋    画像をクリック→ 拡大表示へ
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【 医王寺について 】
平安時代の末期、佐藤基治 あるいはその父(季治・師治)が大鳥城を居館に定める際、眼下に見える薬師堂を整備して新たに堂宇を建て、医王寺と改めて菩提寺に定めた。治承年代(1170〜1180年)と思われるから 三代秀衡 の時代、当主はたぶん基治だろう。基治の継室・乙和子は秀衡の従姉妹、娘の藤の江は秀衡の三男忠衡に嫁して強い主従関係を結んでいた。
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医王寺は福島交通飯坂線の医王寺前(JR福島駅から9駅 20分、終点飯坂温泉の2駅手前)から約1km、駐車場完備。拝観は宝物館を含め300円(8時半〜17時・冬は16時)。
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医王寺を称する寺は全国各地にあり、ほとんどが本尊として薬師如来(別名を大医王仏)を祀っている。石川県金沢市と富山県南砺市の境にある日本百名山の一つ医王山は古来から薬草を産したため名付けられた。医療を司る如来である。
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基治夫妻の廟所横にある「乙和の椿」は二人の子を失った母の悲しみが乗り移って西側・左半分の蕾が咲かないまま落ちてしまうそうだ。花期に確認した訳じゃないから真偽は
不明、またなぜ半分だけなのかも判らないが、元禄二年(1689)5月には奥の細道を旅する芭蕉一行が立ち寄っている。
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月の輪のわたしを越えて、瀬の上といふ宿に出づ。佐藤庄司が旧蹟は、左の山際一里半ばかりにあり。飯塚の里鯖野と聞きて、尋ね尋ね行くに、丸山といふに尋ねあたる。是れ庄司が旧舘なり。麓に大手の跡など、人の教ゆるにまかせて涙を落とし、又かたはらの古寺に一家の石碑(墓)を残す。中にも二人の嫁がしるし、先ずあはれなり。
女なれどもかひがいしき名の世に聞えつるものかなと、袂をぬらしぬ。墜涙の石碑も遠きにあらず。寺に入て茶を乞えば、義経の太刀弁慶が笈をとどめて什物とす。
五月朔日(一日)のことなり。その夜飯塚に泊る。
     笈も太刀も 五月にかざれ 紙幟
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と芭蕉は書き残している。句は「端午の節句だから弁慶の笈も義経の太刀も紙幟と共に飾って欲しいものだ」ほどの意味、か。
ただし、曽良の旅日記に拠れば一行は何故か本堂に入れず、従って寺宝の「義経の太刀弁慶が笈」も拝観していない。「二人の嫁がしるし」とは一行が前日に見た白石市斎川の甲冑堂が収蔵する木像の事で、芭蕉はこれと混同か意図的に誤記したらしい。現在薬師堂の近くに建つ乙和御前と嫁二人の石像はごく近年の物だし、本堂にある甲冑姿の二体も昭和三十七年(1962)12月の製作だから芭蕉が見た筈はない。芭蕉のフィクションと考えるのが妥当か。
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  ※月の輪の渡し: 阿武隈川を渡る月の輪大橋の東北側が渡しの跡 地図。芭蕉一行は南の文知摺(もじずり)から来て川を渡り瀬の上宿に入った。
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  ※義経の太刀: 戦前までは間違いなく存在したが終戦後に米軍が接収したまま戻らず、行方不明になっている。鬼畜米英(笑)だ!
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  ※斎川の甲冑堂: 白石市の 田村神社 甲冑堂 にあるが、明治八年(1875)に(たぶん芭蕉が見たと思われる)甲冑を着けた二人の嫁の像と共に焼失、
昭和十四年(1939)に再建した。像は宮城県出身の彫刻家・小室達(仙台城本丸の伊達政宗騎馬像(供出後の復元品)の作者)の
製作による。説明には二人の嫁が見せた相手は基治とあるが他の伝承の大部分は兄弟の生母・乙和御前としている。


     

           左: 医王寺の山門。開基は天長三年(826)、治承年代(1170〜1180年)に佐藤基治が中興し菩提寺に定めた、と推測される。
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           中: 山門から真っ直ぐに伸びる参道の突き当たりに薬師堂と廟所が位置する。右側に本堂、左側には宝物殿(瑠璃光殿)が建つ。
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           右: 医王寺の本堂。医王とは薬師如来、飯坂に温泉を発見したと伝わる鯖湖親王の祠があった事から「鯖野の薬師」と呼ばれたと伝わり、
弘法大師伝説もある。曽良の随行日記には 「佐藤庄司ノ寺有。寺ノ門ヘ不入。」 とある。なぜ入れなかったのかは判らない。


     

           左: 薬師堂への参道には見事な杉並木が200mほど続く。本堂を素通りした芭蕉と曽良が歩いた道、左の宝物殿はまだ建っていなかった。
曽良随行日記には「西ノ方ヘ行。堂有。堂ノ後ノ方ニ庄司夫婦ノ石塔有。堂ノ北ノワキニ兄弟ノ石塔有。」とある。
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           中: 参道突き当りが薬師堂一帯のエリア。芭蕉の句碑建立は没後百年が過ぎた寛政十二年(1800)、大阪の俳人・大伴大江丸の筆による。
笈も太刀も 五月にかざれ 紙幟  「端午の節句だから弁慶の笈も義経の太刀も紙幟と共に飾って欲しいものだ」ほどの意味、か。
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           右: 参道の右手、中央に義経・左右に継信と忠信を配する石像はもちろん観光客向けに造られたもの。本堂には甲冑を着けた嫁二人の像を祀って
いるが、これは昭和37年(1962)再建なので拝観して感動する価値はない。芭蕉は翌日に立ち寄った白石斎川の 甲冑堂(白石市のサイト)
の嫁の像(既に焼失し現在の像は新しいもの)の印象を医王寺に重ね合わせて書き残した、と推定されている。
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          【 甲冑を着けた嫁の伝承、詳細 】
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頼朝 に追われて平泉を目指した義経 は佐藤氏の居館 大鳥城(別窓)に立ち寄り、継信忠信 の遺髪を医王寺に納めた。息子の死を嘆く母の
乙和を見た二人の嫁(名前は若桜と楓らしい)は自らの悲しみに耐えて夫の残した甲冑を着け、凱旋する勇姿を装って義母の心を癒した、と伝わる。
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この話に関しては具体的な出典の記録が見当たらず、白石斎川(このエリアは佐藤庄司の支配圏北端と思われる)に残る伝承が広まったのが最初
らしい。芭蕉が「二人の嫁がしるし」と書き残しているのだから、この話は江戸時代の中期には全国的に知られていたのだろう。


     

           左: 医王寺の薬師堂。藤原基衡毛越寺(別窓)を建立した際に本尊として大小二体の薬師如来像を運慶に彫らせ、小さい像を医王寺薬師堂本尊
として基治に与えたと伝わる。拝観は毎月8日の縁日のみ、古くから鯖野(佐場野)のお薬師様として親しまれている。
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           中: 薬師堂裏側の佐藤基治と正室・乙和御前の廟所。関東以南に見られる五輪塔ではなく、他の墓碑同様の奥州型板碑(板石塔婆)である。
中尊寺塔中の釈尊院には仁安四年(1169)銘の 在銘最古の五輪塔(外部サイト)があるが、一般にはまだ普及の途中だったのだろう。
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           右: 薬師堂右手、継信・忠信兄弟の墓。発熱には削って呑めば直るとの伝承があり、他の板碑同様に原型が失われ、一部は補強されている。
継信と忠信兄弟のように勇敢で強い人物に憧れる民間信仰が広く信じられていた。いずれも福島市文化財指定である。


     

           左: 基治夫妻廟所の背後には凝灰岩の奥州型板碑を中心に大小60数基が並んでいる。佐藤一族累代の墓所である。
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           中: 弁慶らを従えて奥州に入った義経は医王寺に佐藤兄弟の遺髪を納めて法要を営んだ。この時に奉納した義経着用の直垂の断片と弁慶が愛用した
笈(画像・木製鍍金)は残っているが、同時に納めた義経の太刀は終戦後占領軍に没収されたまま戻っていない。
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           右:左は佐藤継信が、右は信夫十八将の一人・近野刑部左衛門(人物の詳細は不明)が使ったと伝わる木地鞍。


     

           左: 佐藤継信と忠信が使った鐙(あぶみ)と伝わる。これらの寺宝は瑠璃光殿で拝観できるが真偽は不明、館内の撮影は禁止されている。
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           中: 屋島の合戦で継信を殺した「恨みの矢の根」。義経が自ら抜き取って納めたと伝わるが、これも真偽は不明。
ちなみに、平家物語では継信は義経の楯となって強弓で知られる 平教経 の矢を受けた、と伝わっている。吾妻鏡に拠れば教経は屋島合戦より
前の一ノ谷合戦で討ち死にしているから、これも軍記物語の捏造っぽい。左は基治所用の矢の根と伝わる。
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           右: 乙和所用の防身刀とか信夫十郎所用の薙刀とか信夫十八将大越五郎兵衛所用の槍とか、宝物が多数。盗撮を焦ったのでピンボケした。
撮影禁止の場所で隠し撮りしていると、女子高生の下着を狙うお馬鹿さんの心理が判る、ような気がするね(笑)。
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またまた蛇足っぽいけど、合戦で槍が本格的に使われたのは鎌倉時代の中期以降と記憶している。間違いないと思うが真偽は確認していない。
史料でも槍と矛の表記が曖昧なケースが多く、新井白石も「槍は矛の進化系で元弘・建武(室町初期)から本格的に使われた」と書いている。

この頁は2022年 8月 12日に更新しました。