寺伝に拠れば創建は建久五年(1194)。既に奥州藤原氏を滅ぼし征夷大将軍となった
頼朝 は挙兵した当初の功臣である
三浦大介義明 の菩提を弔って真言宗能蔵寺を建立した。
この年には三浦矢部郷にも同様の趣意に基づいて
義明山満昌寺※(公式サイト)を開いている。満昌寺創建の経緯については数度の三浦訪問と共に吾妻鏡にも記載があるが、鎌倉の
能蔵寺に関する記録は見られないため、開山和尚を含めて創建当時の詳細は判らない。わずかに材木座海岸に近いこの寺周辺が昔は「能蔵寺」と呼ばれていた、と伝わるのみ。
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※義明山満昌寺: 頼朝は十七回忌の法要(1180+17=建久八年(1197)は吾妻鏡が欠落している年)を営み、「三浦義明は心の中で生きている」と語って寺領を
寄進したと伝わる。地元には「鶴は千年、亀は万年、三浦大介百六つ」の囃し言葉が残っているらしい。義明の享年89歳+17回忌=106、か。
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現在は鎌倉三十三観音霊場の第十四番札所であり、鎌倉幕府滅亡直後の建武二年(1335)に音阿上人が中興し、能蔵寺の名を残し「隋我山能蔵院来迎寺」として時宗に改めた。
本尊は義明の護持仏と伝わる阿弥陀三尊立像(弥陀三尊)、他に子育て観音(聖観音)を祀っている。昔のの観音堂は200mほど東の裏山頂上にあり、市街地を挟んで2km西の
長谷観音(公式サイト)と向き合っていたが、昭和十一年(1926)に空爆の目標となるのを危惧した軍の指令で取り壊されたという。
また明治五年(1872)12月には材木座一帯の大火に類焼し、宗祖の
一遍上人 像や義明の像などの寺宝全てを焼失している。
一説に、左の墓石は多々良三郎ではなく三浦義明の妻(秩父重綱の娘で
畠山重忠の祖母)を弔った物とも。真偽は不明だが、いずれにしても
実際には葬られていない供養の墓である。義明夫妻の墓は横須賀の満昌寺にある(これも供養墓かも知れない)。