新田宗家 第四代棟梁の
政義 (
義重─
義兼─義房─政義と続く)が京都の
仁和寺(公式サイト)から阿闍梨静毫を招いて開基したと伝わるのが御室山円福寺 (
参考サイト) 。境内は5世紀前半に築造された前方後円の茶臼山古墳
※を中心にして伽藍配置され、覆屋の中に20数基の五輪塔や層塔が並ぶ新田氏累代の墓所がある。
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※茶臼山古墳: 墳丘は全長168m、後円部は直径42m×高さ9m、群馬県内で三位の規模を持つ。
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政義の生涯は文治三年(1187)〜正嘉元年(1257)。父の義房が祖父 義兼に先立って死没したため13歳で棟梁を継承し、義兼の妻が後見役を務めた。この頃には北條氏と縁戚関係
※を重ねて幕府の御家人筆頭となっていた
足利義氏 の娘を娶り、足利氏を介して辛うじて北條一族との縁を確保していた。
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※北條氏の縁戚: 義氏の母は
北條時政の娘
時子(
政子の妹)、義氏の正室は三代執権
泰時の娘。新田氏に比べると、好き嫌いは別に
して北條氏の方が桁違いに長期的な生き残り戦略を考えていた姿勢が明白である。
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仁治三年(1242)、政義は幕府から預かった囚人に逃亡されて怠慢を問われ、科料3000疋を課せられた。更に寛元二年 (1244) には大番役を勤めた京都で幕府に無許可で定法に背く昇殿と任官を朝廷に要求し、拒否されて臍を曲げたらしい。幕府に無届で出家した上に大番役を放棄して新田に帰り幕府への出頭も拒否した。結果として所領の一部を公収され総領権は剥奪、円福寺を建てて隠居せざるを得なくなった、と伝わる。
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新田一族の惣領権は同族の
世良田(得川)義季(義重の四男)と岩松時兼が引継ぎ、新田宗家は本家として一族を差配する権限を失なった。政義の愚行の結果として、四代後の
義貞 が家長として幕府に反旗を翻すまでの新田宗家は長い不遇の時代を過ごすことになる。
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【 吾妻鏡 寛元二年(1244) 6月17日 】.
新田太郎(政義)は上野国への割り当てである大番役のため在京していたが所労と称して突然出家した。事の次第について六波羅探題にも
幹事役の城九郎(安達泰盛)にも申し出なかったとの報告が届いたため、今日評議と決裁を行い定法に従って所領の一ヶ所を没収する、と。 .
政義の行動に同情できる部分があるとすれば、彼が棟梁になった時点で既に深刻になりつつあった新田宗家の零落が挙げられる。祖父母の義兼夫妻は婿の
足利義純に離縁された娘の子(後の岩松時兼と田中時明)を溺愛し、多くの所領を与えて分家させた。それが宗家の財政逼迫と権威の低下をもたらし、政義が愚行に走った遠因になった可能性がある。
婿に捨てられた不幸な娘と二人の外孫を年老いた祖父母が溺愛する気持ちも理解はできるけれど。