恵林寺の北側、
放光寺 から3kmほど西、小田野山南麓の県道西保線(旧秩父裏街道)沿いにある義定菩提寺の
雲光寺(別窓)には「腹切り地蔵」と呼ばれる石仏や「義定の生害石」とされる自然石がある。
.
また同じ寺の伝承には
「安田義定 は小田野城下で戦ったが 頼朝 が派遣した大軍により8月19日に小田野城下で没した」とあり、ここを終焉の地、としている。その200mほど東の鼓川沿いには足利時代の作と推定される慰霊の宝篋印塔が残っている。
.
また300mほど離れた小田野山中腹の普門寺(当初は真言宗、明暦年間(1655〜1657)以後は曹洞宗)は、
行基 が貧者救済のため薬師如来像(県文化財)を刻んで堂に納め、後に義定が現在地に遷して一族の祈願寺を建てたのが起源と伝わっている。
.
小田野山は標高882m (麓との標高差217m) 、義定が築いた詰めの城である。室町時代には甲斐の覇権を狙った守護代の跡部景家が信玄の曽祖父で甲斐守護の武田信昌に攻められて籠城した歴史があり、隠家・自害沢・生捕などの地名が残っている。遺構のほとんどは義定の頃ではなく室町時代のものだろう。
.
【 吾妻鏡 建久四年(1193) 11月28日 】.
夕刻に越後守安田義資を女事が原因で 加藤景廉 により斬首された。父の遠江守義定もその件に関連して頼朝の機嫌を損ねた。これは昨日永福寺法要の際に義資が御所の
女官に艶書を送り、当人は黙していたが 梶原景季 の妾がこれを夫の景季に語り、父の 景時 を経て頼朝に報告された。真偽を糾明したところ関係者の言葉が符合したため
の措置である。従五位下越後守源朝臣義資 遠江守義定が嫡男 文治元年八月十六日任叙。 .
【 吾妻鏡 建久五年(1194) 8月19日 】.
安田義定を梟首した。嫡子義資が斬首され所領を没収されて以降は世を嘆き親しい者と図って反逆を企てたのが発覚したためである。遠江守従五位上源朝臣義定(61歳)
安田冠者義清※の四男 壽永二年8月 10日遠江守・従五位下 文治六年1月26日下総守 建久二年3月6日遠江守・従五位上
.
※安田冠者: 原文通りだが、
源義清 が安田冠者と呼ばれた事はない。武田冠者の間違で、吾妻鏡は結構雑なのだ。
.
【 吾妻鏡 建久五年(1194) 8月20日 】.
義定に関わる5人を名越で斬首。前の瀧口榎下重兼・前右馬允宮道遠式・麻生平太胤国・柴籐三郎・武籐五郎らである。和田義盛 がこれを差配した。