義清 を継いだ嫡男の
清光(逸見を名乗る。少年1110〜1168年)は更に甲斐国北部に勢力を伸ばして多くの男子を残し、逸見・武田・加賀美・安田・浅利
などの一族を甲斐国全土に扶植した。さらに清光のニ男(双子の弟)信義は頼朝挙兵に加わって平家討伐に功績を挙げ、後の戦国大名・武田一族の基礎を築いた。
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吾妻鏡の治承四年9月15日に拠れば、
「武田信義 と
「一條忠頼 が信濃の平家与党を討伐して逸見城に戻った。北條時政 が到着して 頼朝 の意向を伝えた」旨の
記載があり、この逸見城が現在の谷戸城址と推定されている。
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現在も残っている土塁や空壕・郭跡などの遺構は築城当時ではなく、出土品から推測して14〜15世紀(鎌倉末期〜室町時代)らしい。また西側の山裾には館が
置かれていたと思われる「六の郭」跡が残っており、ここは現在は農家の住居となっている。西側の搦め手虎口(裏側の重要な出入口)の小山部分・西の出丸には
清光の墓と伝わる宝篋印塔がやや崩れかけて残っているが、この真偽は明らかではない。
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城郭は地元で「流れ山」と呼ぶ小山に築かれ、東西を流れる衣川と北に造られた横堀で区画されている。
山頂の一の郭を中心にして五の郭まで同心円に配置し、それぞれの出入り口には食い違い虎口が築かれ等高線に沿って空堀(横堀)を巡らしている(
地図)。