修禅寺は大同ニ年(807)に
空海(弘法大師)が創建した(単なる伝承)古刹で、伊豆八十八ヶ所霊場の結願寺でもある。創建から400年以上は真言宗だったが、南宋の渡来僧
蘭渓道隆 ※が臨済宗に改めた。
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この時に南宋の五代皇帝・理宋(在位:1224〜1264年)が下賜して渡日する蘭渓道隆に託した「大宋勅賜大東福地肖盧山修禅寺」と書かれた扁額(惜しくも文久三年(1863)に焼失)を持ち込んだ経緯から修禅寺の存在は中国にも広く知られており、大陸から団体でやって来た観光客も結構多勢見かけるのもまた面白い。
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蘭溪道隆は鎌倉の臨済宗建長寺の開山を務めた高僧だったが、元(モンゴル)による侵略の下調べを行なうスパイの疑惑を受けて修禅寺に幽閉となった。周辺は道路が狭くて駐車場も判りにくいのが難点だが、平日の落ち着いた雰囲気はなかなか捨て難い。
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修禅寺の堂塔は南北朝時代の康安元年(1361)に
畠山国清 (wiki) に関わる戦乱で焼け落ち、更に応永九年(1407)には失火によって全ての建物を焼失。後に堀越公方を倒して伊豆韮山城主となった伊勢新九郎(後の
北条早雲 (wiki) が遠州(静岡西部)から招いた叔父の隆渓繁紹をが中興
※し、曹洞宗に改めて現在に到っている。
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※蘭溪道隆: 寛元四年(1246)に33歳で弟子と共に渡来し臨済宗を広めた南宋の僧。五代執権
時頼 の帰依を受けて鎌倉に入り、
常楽寺(開山は
退耕行勇)を従事し、
建長五年(1253)には
建長寺(公式サイト)の開山を務めた。これ以後は渡来した高僧はまず建長寺に入って住持に任じるのが習慣となった。仏教の顕学・無住道暁(梶原氏の末裔で
宇都宮頼綱 室の甥)は「建長寺は中国語を常用する異国空間だった」と表現している。
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これが文永の役(1274)前後に蘭溪道隆が中国の間諜と疑われ、甲斐や奥州を経て修善寺に幽閉される端緒になったのだろう。
蘭溪道隆は後に京都建仁寺→ 鎌倉壽福寺→
禅興寺 (wiki、時頼が創建した最明廃寺を再興) の従持を経て弘安元年(1278)に建長寺で没している。
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※隆渓繁紹が中興: 寺伝では延徳元年(1489)に再び曹洞宗に改めている。伊勢新九郎が伊豆に入ったのは明応二年(1493)で、その4年前から修禅寺に影響力を
持っていたとは考えにくい。近年の研究では伊勢新九郎の父は備中荏原荘(岡山西部)を領した伊勢盛定(足利義政の家臣)と考えるのが定説に近く、叔父が遠州(静岡西部)の高僧云々も俄かには信じがたい。
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修禅寺を訪れた
岡本綺堂 が鎌倉時代を題材に戯曲を書き上げ、明治41年(1908)に明治座で初演したのが夜叉王を二世市川左団次が演じた「修禅寺物語」。果たして大好評となり、修善寺温泉の名を一気に高めた。面打ち師の夜叉王と娘のかつら、そして幽閉された二代将軍頼家とかつらの思いを滅びゆく源氏の姿を背景に描いたストーリーで、岡本綺堂は修禅寺の寺宝である面を見て作品のヒントを得た、と言われている。
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頼家は「自分の顔を写した面を打て」(木から打ち出すので「面を打つ」と表現する、らしい)と夜叉王に命じたが、何度打っても面には死相が現れる。頼家はそれを強引に持ち帰るが討手に襲われ、身代わりになった娘かつら共々殺されてしまう。夜叉王は死んでゆく娘かつらの姿を面に写しつつ、頼家の面に現れた死相は自分が面打ちの技を極めたためだった、と驚嘆する...概略そんな筋書き。全文を読みたければ
こちら(外部サイト)で。
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その他、修禅寺周辺の情報は
指月殿 ・
頼家廟所 ・
範頼の墓所 ・
修禅寺奥の院 ・
安達籐九郎の墓 ・
独鈷の湯 ・
横瀬八幡社 を参考に。(全て別窓)
関連して、2003年7月19日に修禅寺で行われた
頼家八百年忌の風景(別窓) で。