古都足利の史跡 樺崎寺(古名は法界寺)と光得寺 

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法界寺大日如来 光得寺大日如来
足利義兼 の父 義康 八幡太郎義家 の孫、義兼の母は 頼朝 の母の妹(頼朝の母の姪説も)、義兼の妻は 北條政子 の妹 時子 であり、義兼の庶長子 義純 は政子の別の妹(畠山重忠 の未亡人)を妻とした。義兼は頼朝の存命中は源氏門葉(一族中枢)として、北條一族が実権を握った1200年代からは執権の縁戚として幕府での高い地位を確保した。
 
 【大仏師 運慶の作と確認された二体の大日如来像】
 
  画像の左: 2008年、ニューヨークのオークション(クリスティーズ)で宗教法人である 真如苑 の委託を受けて
三越が落札した運慶作の大日如来像。落札金額は手数料を含んで総額14億円。
高さ66.1cmの檜造りで、義兼の菩提寺である法界寺 (廃寺) の本尊だったと推定されている。
 
神仏判然令(1868年発布)に伴う廃仏毀釈の影響を受けて樺崎寺が廃寺になった明治初期の混乱と共に流出し、百数十年を経て北関東の美術商から購入した現所有者が出品した。
 
  画像の右: 光得寺所有(現在は東京国立博物館収蔵)の大日如来像。足利義兼が厨子に納めて背負い諸国を巡礼した
と伝わっている。高さは左の像の概ね半分の31.3cm、細部に至るまで同じ形状である。
 
二つの仏像は元々は鑁阿寺境内の奥の院(赤御堂)にあり、法界寺建立に伴って遷された。明治維新の廃寺の際に廃寺に光得寺に遷された経緯がある。厨子に納まった本来の姿と、光得寺五輪塔群(現在は新設した建物に収蔵)の古い画像も参考に。

大日如来のCTスキャン 胎内の心月輪模型 画像の左: CTスキャンした大日如来像の内部。
 
画像の右: 像が内蔵する五輪塔(高さ14cm)と心月輪(直径2cmの水晶玉)の模型。
 
この大日如来像が運慶の作であるとする文献資料は皆無だったが、内部のX線検査によって光得寺の像を含む他の運慶作品との共通点が明らかになった。五輪塔の形の木柱が納められていること、特に心月輪として納めてある水晶玉は光得寺に伝わる大日如来像と全く同じ様式のものだった。
 
樺崎寺 が廃寺となったため厨子に入った小さな一体は光得寺に祀られたが、本尊だった大きな一体の方は行方不明に。荒廃による盗難か或いは換金目的で転売されたかは不明だが、近年になって手に入れた骨董品業者は価値を見抜けず、かなり安い値段で所有者(オークション出品者)が入手したらしい。間もなく東京国立博物館に持ち込んで鑑定を依頼し、仏像研究の権威である清泉女子大の山本勉教授が詳細を鑑定、ほぼ運慶の作品に間違いないとの結論を得て東京国立博物館で一般公開され脚光を浴びた。
 
 ※樺崎寺: 正式名は創建当初の法界寺とすべきだと思うが、行政は後世の通称である樺崎寺を採用した。噂では某宗教団体の強い
ゴリ押しがあったらしい。鑁阿や法界は密教の教義に基づく言葉で、高野山や鑁阿寺の古文書にも「上御堂を鑁阿寺、下御堂を法界寺」と記されている。狂信者は歴史まで歪める、だね。
 
さて、鑑定が終った大日如来坐像について、文化庁による買取りの申し出や足利市での署名運動もあったが金額が折り合わず、結局はクリスティーズのオークションに出品され14億円もの膨大な代価となった。本来は信仰の対象である仏像が金銭欲の対象として扱われ、更に極論すれば信仰心の欠片もない投機の対象として扱われるのは何とも悲しいが、海外に流出しなかった事を以って良しとすべきなのかも知れない。
 
義兼の墓は樺崎八幡宮に近い光得寺に移設された19基の五輪塔の中にあるとされるが、2010年現在は劣化を補修するため市教育委員会の管理下にあり、公開されていない。数年のうちに光得寺に覆屋を造って元の位置に戻すとの話だが2012年10月現在で進展は見られず、補修が始まってから5年以上が過ぎている。いったい何をしてるんだろうね、まさか売り払った訳でもないだろうに(2016年、やっと完成)。法界寺跡の発掘に関する詳細は こちら (市教育委員会)で。


     

           左: 法界廃寺周辺の復元予想図。創建された鎌倉時代ではなく、鎌倉公方が整備した室町時代(15世紀前半)の姿をモデルにしている。個人的には、
NHKの大河ドラマ人気に便乗して足利を「太平記の町」とPRしたのが根本的な間違いだ、と思う。中世の歴史に足利が登場したのは平安時代の
末期で、頼朝挙兵の1180年より更に前。太平記が描いているのは後醍醐天皇が即位した文保二年(1318)だから、150年近い差がある。
 
足利エリアは鎌倉時代の初期から中期にかけて最も繁栄し、その時代に鑁阿寺や樺崎寺など多くの文化財を残しているんだよね。
足利の主人公を挙げるとすれば尊氏ではなく、義国−−義康−−義兼−−義氏と続く初期の四代がメインなのだ。
ひょっとすると、名称を本来の法界寺ではなく樺崎寺にしたのも創建当時の経緯に配慮しなかったためか...なんて考えすぎかな。
 
           中: 独立峰・八幡山(152m)の山裾に苑池が発掘復元された。現在は廟所跡から北関東道近くまで4kmのハイキングコースが整備されている。
法界寺と八幡宮は、奥州合戦での戦勝を祈って足利荘の樺崎郷を伊豆走湯山の理真上人に寄進したのが創建の背景と伝わっている。
 
理真上人は義兼に請われて鑁阿寺の開山和尚を務めた人物で、藤姓の 足利忠綱 に請われて多宝山福厳寺(観光協会サイト)など足利エリアに
数ヶ所の寺院を開いた。福厳寺創建は寿永二年(1182、月日不明)、同年2月には野木宮合戦で 源(志田)義憲 と忠綱連合軍が小山朝政
鎌倉方に惨敗し当主俊綱の首級は鎌倉に送られた (嫡子忠綱)は逐電して行方不明 。
 
野木宮合戦を指揮して惨敗した藤姓足利氏の嫡子忠綱が、同じ年に源姓足利氏の本拠鑁阿寺から1km西(地図)に、父の( 俊綱)と母の菩提を
弔って福厳寺を建てている(福厳寺と両崖山を参照・別窓)。しかも開山和尚は頼朝と縁の深い走湯山の高僧で 源姓足利氏と縁の深い霜御堂法界寺を
開いた理真、しかも福厳寺は忠綱と敵対した足利義兼と正室時子(時政の娘・政子の妹)の守り本尊を祀っているから面白い。
 
両家は敵対関係にあったが、必ずしも憎みあったまま終始したのではなかった、そんな可能性も考えられる。
 
           右: 本殿へ向う参道の鳥居。左手が苑池の跡、右側には地域の集会所と広い駐車場(法界寺の中心部・下御堂と僧房群の跡)が整備されている。


     

           上: 樺崎八幡宮本殿。義兼の跡を継いだ三代義氏が八幡神を勧請して義兼を合祀したと伝わる。義兼はここに葬られ、血で記した遺言の内容に倣って
本殿は朱に塗られていた、と。ただし実際に義兼を葬ったのは苑池の北側に建っていた法界寺(鑁阿寺を大御堂・法界寺を下御堂と呼ぶ)と推定され、
運慶が彫った二体の大日如来像もここに納められていたのだろう。樺崎八幡宮(祭神は八幡神、義兼を合祀)は法界寺を鎮護する存在であり、現在の
社殿は天和年間(1681〜1684)に再建されたもの。


     

           上: 樺崎八幡宮から見下ろす庭園(苑池)の跡。2007年現在で山裾の建物跡の調査が終わり、次年度からは苑池周辺の整備が始まる。


     

           上: 2 015年の早春、苑池の整備はかなり進んでいる。なんとなく室町時代(つまり足利義政の時代)の雰囲気がして、個人的には楽しくはない。
苑池の山裾側から廟所のある高みに登る石段が三ヶ所に設けてある。これは果たして発掘調査に依拠したものか。


     

           左: 廟所の跡。ここには南北20.4m×東西6.5mの基壇に瓦葺きの覆屋が建ち10基の五輪塔が並んでいた。いつの時代にか覆屋は倒壊し、
明治初期の神仏判然令に伴って法界寺は廃寺となった。大日如来像などが流出した、文化財にとっての冬の時代である。五輪塔群は1kmほど
西( 地図)の光得寺(三代義氏創建と伝わる、地域で最大規模の巨刹だった、と)に移され、市の教育委員会が10年を費やして修復した。
実作業に10年を要したのではなく、樺崎寺跡地に陳列したい市の思惑など諸般(世俗的な調整作業)の事情で遅れたのが真相らしい。
 
           中: 法界廃寺多宝塔跡は四代住持熱田弁僧都重弘が父の供養に建立したもの。5.7m四方に礎石があり、14世紀には瓦葺きに改修された。
 
           右: 斜面の岩を削って3m四方の礎石を持つ覆屋を建てた跡。義兼の子・義氏を供養した五輪塔が置かれていたと伝わっている。鑁阿寺の古文書にも
五輪塔についての記載はあるが、完全に「義兼の血染めの遺書」の二番煎じで、コメントの必要もない。


     

           左: 樺崎八幡宮絵図(江戸時代)には10基の五輪塔が並ぶ右側、岩を削り出した一角に義氏の五輪塔が描かれている。
 
           中: 発掘中の廟所跡。周辺から出土した瓦には応永20年(1413)の刻印があり、時の鎌倉公方足利持氏が整備した事を物語っている。
 
           右: 廟所跡の北端下層から発掘された建物跡(内側の四角)は3m四方、13世紀の瓦も出土した。廟が建つ前の建物跡と推定される。


     

           左: 菅田山光得寺は臨済宗妙心寺派。冒頭に記載した大日如来像(31.3cm、現在は東京国立博物館収蔵)を所有している。
           中: 光得寺の鳥瞰図。五輪塔並んでいた古い写真は私の備忘録ファイルの中で行方不明だが、いつかは出てくるかも知れない。
           右: 完成した覆屋。お寺さんの話では近日中に完成供養と慰霊の法事を済ませてから公開の方法を考えるらしい。表示を引用しておく。

         足利市指定文化財 光得寺五輪塔 19基   足利市教育委員会の説明文
 
これら五輪塔群は、足利氏歴代と足利氏の重臣高氏の供養塔です。もともと足利氏の廟所である樺崎寺に祀られていましたが、明治初期の神仏分離令に伴い、
法縁のある光得寺に移設されました。以前は南北一列で置かれていましたが、長年風雨にさらされ石材の劣化が進んでいたことから平成16年度に保存修理し、
現在は覆屋内に南北二列(南から南北10基を後列、北側の9基を前列)で並置されています。
 
総じて奥側が大形で、大形のものは主に凝灰岩製(群馬県みどり市笠懸の天神山産とされています)、中形のものには安山岩製の部材が混在しています。
おそらく樺崎寺から移設した際に、部材の組み合わせに混乱があったものと推測されます。
 
五輪塔各部材のほとんどには、それぞれ見事な薬研彫りで梵字が刻まれています。大形の五輪塔は大日法身真言の梵字を刻むものが主体をなし、空風輪は風化が
著しいものの、火輪には梵字の「ラン」が、水輪には梵字の「バン」が、地輪には梵字の「ア」が四面全てに彫られています。全ての五輪塔の中にもみられ、
本五輪塔の特徴を示しています。また地輪に左記の銘文が認められるものがあります。
 
  「康永二年5月24日」(1343年) 後列南から4基目
  「浄明寺殿」(足利貞氏の法名) 後列南から6基目
  「長□寺殿」(長壽寺殿とすると尊氏の法名)) 後列南から7基目
  「月海圓公大禅定門 應安四辛亥年3月26日」(月海圓光は南宗継の法名・高氏一族の高南氏・1371年) 前列南から4基目
  「前武州太守道常大禅定門 観應二辛卯年2月26日」(道常大禅定門は高師直の法名・1351年) 前列南から5基目
 
本五輪塔群はその特徴から鎌倉時代後期〜室町時代に造られた足利氏歴代と重臣の供養塔であり、本市を代表する中世の石像物として大変貴重です。  
                              平成27年3月 公益財団法人足利市民文化財団 足利市教育委員会

           下7枚: まだ覆屋内の立入りができずサイズなど詳細データは不明。法界寺の建立が義兼の生存中(死没は正治元年(1199)だからそれ以前)
なのに、義兼の供養塔どころか、資料に載っている義氏の供養塔も確認されていないなど、疑問点は多く残っている。
そもそも、南北朝時代の紀年が確認できるだけなら「その特徴から鎌倉時代後期の作」のコメントは何の意味も持たない。

     


     


           下9枚: 参考 足利庄鑁阿寺 42代住職山越忍空(1872〜1934)の編纂書(国立国会図書館蔵)の記述。
 
義重の弟義康父の後を承け宗家として足利氏を名のり、鳥羽上皇に仕て北面となり左衛門大尉に叙し熱田大宮司季範の二女を娶り、陸奥守に
任せられ検非違使となり足利陸奥判官と称す。保元の乱に源義朝と禁閥を守衛し、崇徳上皇の軍敗れて将士逃散するや義康左衛門尉は侍大将の
平家弘父子五人を捕へて之を大江山に斬る功を以て昇殿を聴されしか。保元二年5月29日31歳を以て卒す。
之全く足利氏の始祖なり鑁歳寺殿義山道達大居士と号す。遺跡は本郡北郷村菅田の稲荷山にありて墓碑は父君宝憧寺殿と共に一山に移し今猶存
せり其の忌日法会に関して別に左馬頭義氏の厳かなる記録ありて存す。
 
鑁阿寺住職であっても明治の末期に書かれた寺伝に基づいて書いた文書だから全面的な信頼は置けない。ただし文面の通りなら遺跡(つまり墓碑)が
稲荷山にあり、父君宝憧寺殿(足利義康)と共に一山(鑁阿寺)に移し、云々との内容である。稲荷山と樺崎山は東西約1kmの距離で対峙しており、
義兼の遺骸は樺崎八幡宮(赤御堂)または法界寺(樺崎寺)に葬られたのだろうが、例えば供養墓のような何らかの遺跡が稲荷山に設けられ、それが
鑁阿寺に移設された可能性は考えられる。
 
稲荷山は光得寺の南東に位置する( 地図)。 これ以上の詳細史料が得られないため、取り敢えず稲荷神社に参拝して撮影を済ませておいた。
いつか機会があればもう少し掘り下げてみたい、と思う。