宝治合戦(1247年)6月、五代執権
北條時頼 は最後の政敵 三浦一族を滅ぼして鎌倉幕府を安定期に導いた。同じ年、奈良
西大寺(公式サイト)で修行を重ね非民の救済に尽力していた
忍性 は九州に下り、同門の定舜が唐から持ち帰った律書(律三大部(経典)と十八具)を受け取って更に信仰を深めた。
.
この四年前、奈良
般若寺(公式サイト)近くの
北山十八間戸(外部サイト)で貧民救済に尽力していた寛元元年(1243)には関東の宗教事情を視察し、布教の準備に取り掛かっている。師の
叡尊は
真言律宗 の教義と布教を至高と考え、忍性は貧民救済の比重を高めようとする、微妙な違いが面白い。
.
建長四年(1252)、本格的な律宗布教を目指した忍性は叡尊の指示に従って本拠の西大寺から関東に下り、鎌倉御家人
八田知家 の所領 常陸の三村山清冷院極楽寺(廃寺)を拠点に布教を行いつつ鎌倉進出の機会を待った。そして正元元年(1259)、連署を弟の
政村 に譲って鎌倉極楽寺に隠居していた
北條重時 の招聘を受けて極楽寺を視察、弘長二年(1261)には北條時頼・重時・実時らの信頼を得て鎌倉に入った。
.
この年11月には死没した重時の葬儀を司り、翌年には鎌倉に下向した宗祖叡尊を引き継ぐと共に念仏宗の指導者・念空道教の帰依を受け、実質的に鎌倉に於ける律宗と念仏宗の指導者となった。
.
三村寺は茨城県つくば市小田の宝篋山南西麓にあり、小田城跡から4km北東の宝篋山頂には電波塔の横に関東最古で最大、高さ251cmの宝篋印塔が聳えている。極楽寺の跡は裏山池の南東周辺(
地図)だが、山頂の宝篋印塔まではどのルートを選んでも麓の駐車場(休憩施設)から2時間程度のウォーキングが必要となる。宝篋印塔については
こちら(外部サイト)を参考に。残念ながら私は山道が面倒なので見学をパスしてしまった。2022年現在は車で小一時間の筑西市 (筑波山の西、ね) に住んでいるから
いつでも行かれると思いつつ、既に2年が過ぎつつある、はっは。
.
宗教家としての忍性は、更に三つの顔を持っていた。東国に下る際の忍性は大蔵派(宋から渡来した石工の子孫・伊派の流れを汲む、される)の石工集団を率いており、鎌倉で様々な建設・石工・土木作業に携わった。行政を代行する専門家集団のリーダーも、忍性の顔の一つである。
.
文永二年(1267)に長老として極楽寺に入った忍性は港湾施設である
和賀江島(wiki)の管理運営の権限を得て、国内外から鎌倉に入る交易品の通過手数料(まぁ関税か消費税の類だね)を徴収できるようになった。行政の仕事を代行して実績を重ねた技術者集団を抱えているから港湾の整備・補修にも熟達しているし、宋との交易で成功した
清盛 の例に倣った可能性もある。幕府は煩雑な業務を忍性の極楽寺集団に委託する見返りとして経済的なメリット (布教と貧民救済の原資) を与えた訳で、これらは忍性の持つ経済人としての顔と言えるだろう。
箱根精進池の畔に残る石造物の多くは忍性が率いた石工集団の作と伝わっている。画像はその中の一つで、文永四年(1296)の銘と正安二年(1300)に忍性が開眼供養した旨の追刻がある。
同じ頃に鎌倉で布教活動をしていた
日蓮 は「忍性が権力と結託して利を貪る存在」であり「忍性のために正しい仏法が普及しない」と考えて「律国賊」と呼び非難していた。日蓮宗の言う「法難」(草庵焼き討ち、龍ノ口斬首未遂、伊豆流刑、佐渡流刑など)は、基本的には忍性の律宗を含む鎌倉の既存仏教(念仏宗・禅宗・天台宗 他)を攻撃し続けた日蓮に対する反撃である。日蓮の方も雨乞いの祈祷
※が成功しなかった忍性を悪し様に罵ってるし、法華宗以外は全て偽物、地獄へ落ちる輩と断じているのだから、中世とはいえ余り褒められない排他的な布教姿勢ではある。
この「唯我独尊」姿勢だけは、創価学会が見事に継承している。金と権力に毒されたエセ宗教である。.
※雨乞いの祈祷:日蓮宗は祈祷競争に失敗した忍性の無能を激しく攻撃しているが祈祷は数ヶ所で行われており、信頼できる結果の記録は残っていない。
どの時代であれ祈祷で雨が降る筈はないし、信仰によって現世の功徳を得たと自慢する方が異常だろう。信仰で心の平安を得る事はあるが、それは現世の功徳ではない。
.
いずれにしろ宗教家を名乗る者はすべからく
「十種の請願」を読み返すと良い。権力に擦り寄り歴史に汚名を残しても平気なら別だけどね、創価学会さん。
忍性石工集団の石造物は
三村山極楽廃寺(茨城県)、
箱根精進池の石仏群、伊豆流罪は
蓮着寺、草庵焼き討ちは
名越の大切岸(いずれも別窓)に掲載した情報を参照あれ。