太田に残る新田荘の史跡 

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上野国新田荘の成立と衰退について
 
臣籍に降下して源姓を名乗ったのが経基王で、その嫡男が満仲。摂津国多田荘(現在の兵庫県川西市)に土着して勢力を伸ばし、強力な武士団を作り上げた。長男の頼光(坂田金時の主人だね)は攝津源氏の祖となって頼政の系統に繋がり、二男頼親は大和源氏の祖となって少し無名な石川氏の祖となり、三男頼信は河内源氏の祖となって頼朝の系・足利義康の系・新田義重の系・佐竹隆義の系(常陸源氏)・武田信義の系(甲斐源氏)に子孫を残して最も繁栄した。
 
頼信嫡男の頼義が河内源氏の棟梁を継承し、更に武名の高い八幡太郎義家へと続き...義家の後継を巡るトラブルの末に河内源氏は二男義親→為義義朝頼朝と受け継がれていく。そして義家の末弟・義光の長男家業が佐竹を名乗り常陸源氏の祖に、二男義清が甲斐に移って武田氏の祖に、三男盛義が義信→朝雅と続く平賀氏の祖になった。一方で河内源氏を継承した義親の弟・義国は下野に土着し、長男義重が新田氏・二男義康が足利氏の祖となった。
 
新田荘の初代は義家の三男である義国。所領の足利庄を次男の義康に譲り、長男の義重(義康の異母兄)と共に新田に移って利根川北部の荒地を開墾した。保元二年(1157)には開発した私領を藤原忠雅に寄進、下司職(実務を担当した荘官)となって実権を握り義重に継承させた。
義重は更に周辺の開発に力を注ぎ、嘉応二年(1170)の目録に拠れば南北20km・東西13kmの面積を所有する広大な荘園となった。本領の新田中心部は嫡子の新田義兼が相続し、周辺の所領は他の男子が受け継いで更に勢力を広げ、多少の盛衰はあったが、後には足利氏と共に鎌倉幕府を滅ぼす勢力となる。
 
頼朝挙兵の際は足利の当主義兼が早くから参加したにも拘わらず合流が遅れ不興を買った。新田荘が平家系の荘園だった事・頼朝を格下に見ていた事などが理由である。足利義兼は北條と縁戚関係を深め幕府での地位を固めたのに比べて新田義重の立場は弱く、処遇の差も歴然としていたが源氏の最長老だったためにそれなりの敬意を払われていた。
 
新田の惣領は義重−義兼−義房−政義と続いたが政義の代になってトラブルが続出した。仁治三年(1242)には幕府から預かった囚人に逃げられ、大番役として京都にいた寛元二年(1244)には昇殿と任官(幕府の定法に違反)を朝廷に求めて拒まれると突然出家し、職務を放棄して新田に帰り幕府への出頭も拒否した。このため所領の一部を没収され惣領職も剥奪、この事件により新田一族の没落は決定的となった。
 
政義の四代後の新田義貞による鎌倉攻めの発端は後醍醐天皇の呼び掛けだが、長年の冷遇に対する積もり積もった恨みがあったらしい。まぁ一族が招いた自業自得とはいえ、義貞の時代には新田本家の領地は新田荘60郷のうち数ヶ所だけ、当主の義貞も無位無官だったと伝わる。そして...鎌倉幕府を倒した主役だったにも拘らず南朝の衰退と共に新田一族の子孫も恵まれた境遇は得られず、江戸時代にも低い地位のまま過ごしている。明治時代になってから子孫の岩松氏が新田の嫡流と認められ、男爵の地位を得ているのが多少の幸運と言えるだろう。



呑嶺山明王院安養寺   無料駐車場あり  見学無料  地図は こちら
 
寺伝によれば、明王院は康平四年(1061)に後冷泉天皇の勅を受けて源頼義が開基となり興福寺から招いた頼空上人を開山として創建された。その後に新田義重が宝永二年(1705)に中興し再建した不動堂が山門の正面に建ち、新田一族の守り本尊である二体の不動明王像が厨子の中に納められている。
 
一体は高さ5.5cmの白金製。「新田の触れ不動」として知られ、挙兵の際には山伏に姿を変えて越後まで飛び回り、縁の繋がる新田の支族に義貞挙兵を触れ歩いた。もう一体は約76cmの御影不動明王木像で、新田義重が楯に座して軍勢を指揮する姿を写したものと伝わる。両像とも秘仏であり、拝観は不可。
義重は八幡太郎義家の孫。源義国の長男であり、義国が開拓した新田荘を相続して一族の祖となった人物。明王院の本尊は絹本彩色の倶利伽藍不動明王像であり、触れ不動と御影不動と不動明王と倶利伽藍不動の三つが新田氏相伝の守本尊とされる。
 
明王院は新田一族の氏寺として栄えたが南北朝時代に足利氏の兵火で焼き払われ、江戸時代になって再建された。境内には石仏や古い五輪塔が点在しており、昭和八年に境内から出土した脇屋義助を供養する高さ119cmの秩父青石製板碑も覆屋の中に保存されている。脇屋義助は新田の脇屋を領有し義貞と共に各地を歴戦した実弟で、駿河守に任じられた。義貞の死後も南朝に加わって各地を転戦し、康永元年(1342)に至って伊予の国府で病没した。板碑は義助を弔って義貞の舘の一つだった明王院に建てられたものと推定されるが、北朝の年号である康永元年(南朝は興国三年 )と刻まれているため真贋が疑われていた。現在は本物と考えられ、この碑によって義助の正確な没年月が明らかになっている。


呑嶺山明王院安養寺の詳細は 鎌倉時代を歩く 四 の壱 に移動して整理中です。

     

        左左:中門(二天門)には左に持国天像(四天王の一人で東を守る神)、右に多聞天像(=毘沙門天、鬼門の北東を守る)が立つ。
        左中:本尊である絹本彩色の倶利伽藍不動明王像(他2体の不動明王とともに新田一族相伝の守り本尊とされる)を祀る不動堂。
        右中:不動堂の裏手には古色蒼然とした五輪塔や石造物が残る。いずれも鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての遺物と推定されている。
        右右:昭和8年に境内から出土した義助を弔う秩父青石の板碑。康永元年壬午六月五日生年四十二逝去とあるが、制作年代は不詳。



二体地蔵塚   太田市世良田町1286  駐車場なし(世良田公園の無料駐車場から200m)  見学無料  地図は こちら
 
太平記に拠れば、義貞挙兵の直接の動機になった事件とされる。元弘三年(1333)の3月11日に後醍醐先帝から倒幕の綸旨を受けた新田義貞は、楠正成の守る千早城の攻城軍を離脱して本領の新田に戻った。史実との整合性は別として、義貞はこの頃から倒幕計画を考え始めたとされている。
 
折から鎌倉幕府の執権・北條高時は近畿と中国の反乱を鎮圧するため、弟の泰家に10万余騎の兵を与え上洛させる動きを見せる。そのために武蔵・上野・安房・上総・常陸・下野の六ヶ国に兵役を課し、同時に関東各地の荘園に戦費として臨時の課税を行おうとした。特に新田荘の世良田は豊かな地であるとの理由で幕臣の出雲介親連と黒沼彦四郎を派遣し、5日の間に6万貫を徴税する任務を与えた。
 
任を受けた両名は大勢の部下を連れて荘家(荘園事務を司る者の家)に押し入り、かなり強引な取立てを行った。これに対して義貞は「法を超えた仕打ちであり、我が館の辺を雑人の馬蹄に懸けさせるのは無念」と怒り、弟の脇屋義助に命じて二人を捕縛。その日の夕刻には黒沼彦四郎を斬って首を世良田の郊外に晒した。一面に畑が広がる世良田の公園近くに小高い丘があり、祀られている二体の地蔵が殺された両名を弔ったものらしい。
 
この地域には明治の頃まで数基の前方後円墳と多数の円墳が残されていたが現在はわずか3基が見られるのみで、二体地蔵塚はその中の一つ・古墳時代の円墳と考えられている。伝承に拠ればこの塚の近くで人の争う異様な声が毎晩聞こえるため、村人が石地蔵を建てて供養したところ声は聞こえなくなった。後に近くの普門寺にあった石地蔵一体を移したため二体地蔵と呼ばれるようになった、と伝わる。


二体地蔵塚の詳細は 鎌倉時代を歩く 四 の壱 に移動して整理中です。

     

        左&中&右:義貞挙兵の契機となったとされる徴税事件の結末。北條高時の使者は義貞の命令で斬られ、首を晒された。



生品神社   太田市新田市野井町1923  無料駐車場あり  見学無料  地図は  こちら
 
徴税の使者が斬られたとの報を受けた北條高時は激怒し上野と武蔵の兵で新田を攻める動きを見せたため、義貞一党は軍議を重ねた。そして衆議は挙兵に決し、5月8日の早朝に生品明神に集合、後醍醐先帝の綸旨を三拝して出陣した。ただし、挙兵に加わったのは・・・大館宗氏と嫡男の幸氏・次男の氏明・三男の氏兼、堀口貞万と弟の行義、岩松経家、里見義胤、義貞の実弟脇屋義助、江田行義、桃井尚義など。兵力は僅か150騎、まさに勝算の乏しい挙兵だった。
 
ただし夕刻には越後から駆けつけた新田一族2000騎が合流、彼らがこれ程に早く参陣できたのは山伏に姿を変えた不動明王(新田の触れ不動)が義貞挙兵を知らせて廻ったからだ、と伝わる。更に鎌倉討伐軍には甲斐と信濃からも源氏の流れに繋がる500余騎が加わって大軍となった。利根川を越えた時に足利高氏(後の尊氏)の嫡男千寿王(後の義詮)が合流、御家人の中軸である足利高氏の嫡男に従って縁の繋がる周辺の武士たちも次々に加わった。鎌倉街道を進軍するにつれて兵力は次第に膨れ上がり小手指ヶ原(狭山市)と久米川で迎え討つ幕府軍を敗走させた。
 
分倍河原に退いた幕府軍には10万の増援が加わり一度は攻め手を撃退するが、翌日未明の奇襲作戦により関戸(多摩市桜ヶ丘)で壊滅(敗北の原因には諸説ある)。そして半月後の22日に鎌倉は陥落し北條一族は東勝寺で自害・・・150年続いた鎌倉幕府の終焉となる。
 
生品神社の祭神は大己貴命(大国主命)、平将門の弟である御厨三郎将頼など。源義家が奥州遠征の途中に立ち寄り戦勝を祈願したとも伝わっている。平安時代後期に編纂されたと推定される「上野国十四郡諸社神名帳」には「新田郡従三位生階明神」の記載があり、この時代には既に存在したと考えられる。


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        左:周辺は農地と住宅が混在する閑静な地域。1km南には大型の商業集積・ジョイフル本田があり、史蹟探訪と併せて買物も楽しめる。
        中:鳥居外側の駐車場は樹木に囲まれており夏の日差しを避けられる。満車の場合は社殿の裏手にも専用の駐車場が設けられている。
        右:例大祭は義貞が挙兵した5月8日。わずか150騎の兵力は次第に膨れ上がり、15日後には150年続いた鎌倉幕府を壊滅させた。


     

        左:拝殿は意外に小さくて質素だが境内はそれなりに広くて緑が多い。太平記ブームも遠くなり、休日でも参詣する観光客はごくまばら。
        中:出陣する義貞が旗を立てて戦勝祈願したクヌギ。樹高33mだったが明治37年(1904)に倒れ、根元部分を樹脂で固めて修復してある。
        右:家康寄進の挙兵600年記念碑。周辺には稲村ヶ崎の義貞像・旗挙げ塚・牀几塚・福田&中曽根首相寄贈の石碑など、種々雑多に並ぶ。



反町舘跡   太田市新田反町町896  無料駐車場あり  見学無料  地図は  こちら
 
八幡太郎義家の孫であり義国の子である義重(長男・庶子)が利根川の北岸を開墾領有して新田を名乗り、一族の祖となった。ちなみに義重の弟で義国嫡男の義康が足利氏の初代である。保元二年(1157)には開墾地を左衛門督藤原忠雅に寄進する事により新田荘として立荘、新田庄司となった。
 
その後は秩父党や足利党との争いを経て北関東に勢力を確立した。新田義貞も足利尊氏もそれぞれ両家の八代目に当たり、血縁関係である同時にライバルであったと考えられる。義重の子義季が新田の徳河を領有して徳川家の祖となったとするのが主張の根拠だが、明らかに系譜の捏造である。家康が征夷大将軍の官位を受けるのは源氏という習慣があったために源氏の子孫だと主張した、それが現在の定説になっている。
 
新田義貞が元服後に住んだと伝わるが定かではない。義貞の各地を転戦中は一族の大館氏明が住み、さらに義貞の次男義興が住んだ時期もあったと伝わっている。現在も堀や土塁が残る平城で、天正15年(1590)の秀吉小田原攻めに伴なって落城し廃城となった。現在の城跡の中心は照明寺(反町薬師)である。


反町館跡の詳細は 鎌倉時代を歩く 四 の壱 に移動して整理中です。

     

        左:壕に囲まれた内側は照明寺の境内となり平城跡の雰囲気はないが、戦国時代には三重の堀に囲まれた本格的な防衛拠点だった。
        中:現在は新田荘遺跡と一部として国の史跡に指定されている。境内の桜と籐の花が美しく、春には大勢の花見客で賑わうスポットだ。
        右:新田の後は後北条に属した由良氏が領有して金山城の出城となったが小田原落城とともに廃城となり、由良氏によって照明寺が創建された。


     

        左:駐車場はフラットで広く木陰も多いが1月4日の大縁日と桜の時期には酷い混雑となる。前記ジョイフル本田(約500m)のPも利用可能だ。
        中:南側土塁の外側。画像の右(更に南)側にやや狭い堀が残り、土塁との間は舗装道路になっている。三重だった堀は内側だけが残っている。
        右:約2mの高さの南側土塁は往時の雰囲気を残している。内側には桜の古木が続き、土塁に沿った部分は花見時期のベストスポットとなる。


     

        左:館跡の一角は東西約200m・南北約150mの台形をなす。生品神社までは約2km、共に「太平記の里」の中核をなす史蹟だ。
        中&右:東側の堀の巾は40mに近い。南側の敷地の一部が広げられて籐棚が造られ、5月上旬には見事な花房を見せてくれる。



新田館跡(館の坊・總持寺)   太田市世良田町3201  無料駐車場あり  見学無料  地図は  こちら
 
一辺は約200m、惣領家である新田館跡に建てられた寺で別名を「館の坊」と呼ばれる。中世の堀跡と建物や井戸跡などが発見され、新田一族の中でも惣領家に近い者が住んだと推定される。新田初代義重の居館説、義重の孫で総領を継いだ新田政義が失脚(経緯は後段の金剛院円福寺の項を参照)した後に新田氏を分割継承した世良田頼氏の居館説、義貞居館説などがあるが確定していない。1km圏内には義平の首を葬った清泉寺・東照宮・世良田館跡・東毛歴史資料館などが点在し、新田荘史蹟探索の欠かせないルートに含まれる。
 
江戸時代には真言宗の学問所として36の末寺を従えたという。寺伝によれば正平年間(1346〜1369)に他の2寺と「館の坊」を合わせて一寺とし真光寺と称したが、後に総持寺と改めたらしい。 本堂には新田義貞と伝わる木像があり、義貞(ぎてい)様と呼んで毎年8月1日には祭典が行われる。


新田館跡(館の坊・總持寺)の詳細は 鎌倉時代を歩く 四 の壱 に移動して整理中です。

     

        左:寺伝に拠れば總持寺は新田義重が祖父義家所縁の京都石清水八幡宮を分社して岩松の宮とし、真光寺を建てたのが始まりとされる。
        中:一族の住んだ世良田館に建てた護摩道場の「館の坊」に真光寺を移し總持寺と改めた。義貞はこの館から出陣した、としている。
        右:義重の四男・義季がこの地を相続し世良田を名乗った。更に義季の庶子頼有が南東の得川郷を相続、家康が子孫を主張する根拠となった。



江田舘跡   太田市新田上江田町923  駐車場あり  拝観無料  地図は  こちら
 
新田義貞と共に挙兵し、鎌倉攻防戦で極楽寺坂口攻めの大将として大仏貞直率いる幕府軍と戦った江田行義の館と伝わる。江田氏は新田義重の四男義季が祖となった世良田氏の支族である。行義は義貞が死んだ後も南朝側で戦い続けた勇将である。館は東西約80m・南北約100mで土塁と堀に囲まれ、土橋のある南側が虎口(出入口)となる。戦国時代には金山城の出城として反町館とともに整備され、金山城主由良氏四天王の矢内四郎左衛門の居城となった。天正年間に小田原北条氏は金山城攻撃に先立って江田館を奪い金山城攻略の出城に利用、後に北条氏滅亡(1590)とともに廃城となった。
 
南北朝時代に至って江田行義は義貞に従って各地を転戦し、足利尊氏と対立して追討された。備後国(広島県東部)に土着して姓を守下に改め、9代の間足利氏の目を逃れたと言われている。文禄年間(1592〜1596)に至り行義から十代目の守下大善が旧領の新田荘に戻った。
江田館跡は反町館跡と同様に中世平城の代表的な遺構で、本丸の跡の堀之内は東西の側面に屈曲部分を持ち、外郭には本丸の西と南を鍵型に囲んだ二の丸がある。本丸から北東方向に並ぶ黒沢・毛呂・柿沼の屋敷跡にはそれぞれ土塁と堀が残っている。いづれも後北条時代の遺構だろう。


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冠稲荷神社   太田市細谷町360  無料駐車場あり  拝観無料  地図は こちら
 
新田氏の祖である義重の父・義国が天治二年(1125)に岩松館の鬼門(北東方向)に源氏の守り神として建立した、と伝わる。承安四年(1174)には鞍馬寺から平泉へ向う義経が立ち寄り、深夜の社殿に瑞光を見て源氏に縁のある地と知った。義経は元服した時に烏帽子の中に勧進した伏見稲荷大社の分霊を社殿に納め祀ったという。境内の井戸は義経が無事を祈って斎戒沐浴したものと伝わる。
新田義貞は挙兵に当たってここに参詣し、兜の中に神仏の来臨を請うて戦勝を祈った。境内にはその時に義貞が植えたと伝わる金木犀の巨樹が残っている。その他、不老長寿とボケ防止の御利益がある樹齢400年のボケの樹が知られている。

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青蓮寺(しょうれんじ)と義国神社(義国夫妻の墓)   太田市岩松町640  駐車場なし(周辺の空き地へ)  拝観無料  地図は こちら
 
寺伝に拠れば仁王門の金剛力士像は運慶の作だが、これはかなり疑わしい。青蓮寺の境内を中心にした地域・岩松(当時は「いぬま」と呼ばれた)が義国の住んだ地であり、南方に石清水八幡宮を勧進したと伝わる。建保三年(1215)に鎌倉幕府は義重の嫡男義兼の申請により義兼後家(新田尼)を岩松・下今居・田中郷の地頭に任命した。新田尼は貞応3年(1224)に居館と岩松郷を孫の時兼に譲り、鎌倉幕府は嘉禄二年(1226)に時兼を岩松郷の地頭職に任じた。
 
その他の資料を併せて考えると、この地にあった岩松館には晩年の義国と子の義重と孫の義兼が住んだと推測されている。青蓮寺の山門横には岩松館跡公園があり、西側の三菱電機群馬工場の敷地内には中屋敷があったとされ、新田岩松氏館跡の石碑が建てられている。岩松氏所縁の地なのは間違いないが...新田の祖である義国と義重親子の館跡で、後に岩松氏が住んだとするのが本来だろうと思う。観光では「太平記がらみ」の方がインパクトが強いんだろうけど。
 
義国は河内源氏八幡太郎義家の三男で母は藤原有綱の娘。長兄の義宗が早世し次兄の義親が失脚したため河内源氏の嫡流と期待されたが、弟の義忠と連合して叔父義光と戦う(常陸合戦)などの荒っぽい行動が朝廷に咎められ、父の義家にも疎まれた。ただし義光は後に義忠を暗殺してその罪を自分の兄である義綱とその嫡男義明に着せ義家の後継を狙った人物である事を前提にするべきだろう。
 
康治元年(1142)、義国は所領である足利を安楽寿院に寄進し足利荘とした。のちに足利を嫡男義康に相続させ、新田に移って利根川北岸を開拓し広大な新田荘を確立、久寿二年(1155)に新田で没している。墓所は足利鑁阿寺の赤御堂裏手にもあるが、新田に伝わる夫妻の墓は青蓮寺東200mの畑の中にポツンと建つ神社の裏手に残る。妻の墓と伝わるのは義重の母である上野介藤原敦基の娘だろうか、それとも義康の母である村上源氏・源有房の娘だろうか。
 
異母兄弟ではあるが長男の義重は新田氏の祖となり、二男の義康は足利氏の祖となった。、それぞれの七代後の子孫が足利尊氏と新田義貞、協力して鎌倉幕府を倒したが、後には覇権を争う敵として戦うことになる。足利と新田、両家の家紋については こちら で。


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新田義重夫妻の墓   太田市徳川町396  駐車場なし(満徳寺と徳川会館(公民館)の駐車場が利用可)  拝観無料  地図は こちら
 
義重(永久2年〜建仁2年・1114〜1202)は新田氏の祖とされている。父の義国は自ら開いた足利荘を次男(嫡男)の義康に譲って長男の義重と共に渡良瀬川の南に移り、新田を開墾した。保元二年(1157)には平家に近い公卿の藤原忠雅を領家として正式な荘園となったが、この地は義賢の本拠地・大蔵や秩父平氏の領域に接していたため頻繁に武力衝突を起こし、これに勝ち抜いて北関東での勢力を確立した。
 
早くから頼朝旗揚げに加わった足利一族と違って参加が遅れたため頼朝の不興を買ったが、これは源氏本流としてのプライド・平家と縁が深かった事・北関東での大きな実力などが影響していた、とされる。また娘(義平の寡婦)を頼朝の妾とするのを拒むなどもあり、鎌倉とは良好な関係を保てなかった。これが足利と新田の処遇の差となって尾を引き、最終的には新田義貞による幕府打倒の遠因になった、とも言える。
 
義重は次男(四男とも)の義季を特に可愛がり、得川・女塚・押切・世良田・平塚・三ツ木など新田荘南部の広大な地域を継承させて晩年は夫人と共にこの地に移り、死後は邸内に葬られた。墓石の高さは約140cm、割れた天蓋部分は切断面を整えられ鉄の帯(天保八年・1838年の銘)で補修されている。昭和45年の墓地整備の時に3基の礎石下から火葬骨の入った灰釉陶器の骨壷が出土した。遺骨は元通りに埋葬され、骨壷はすぐ近くの 満徳寺 に収蔵されている。
 
義季は徳川家の遠祖とされているが、かなり疑わしい。得川の領主ではあるが正式には世良田の地頭であり、吾妻鏡に記載のある「徳河義秀」とは別人らしいこと、などによる。クールな見方をすれば、徳川幕府による意図的な清和源氏の血統偽装だと判断される。


新田義重夫妻の墓の詳細は 鎌倉時代を歩く 四 の壱 に移動して整理中です。

     

        左:徳川郷主だった正田義長が寛永年間に勧進した東照宮の裏手、見事なネギ畑を背景にして農地の中に参道が造られている。
        中:覆屋で保護されているが、3基とも劣化が進んでいる。むしろ5kmほど西にある義国(義重の父)の墓石の方が保存状態は良い。
        右:墓所の一帯は徳川幕府による手厚い保護を受けてきたという。凝灰岩で造られた墓石の天頂部はすでに失われている。



岩松八幡宮   太田市岩松町251-1  無料駐車場あり  拝観無料  地図は こちら
 
社伝に拠れば、
祭神は第15代の応神天皇(誉田別尊・在位270〜310年)。六條天皇の仁安年中(1166〜1168)に新田義重が大番役で在京した際に山城国久世郡男山八幡宮に参拝して松の実を拾い新田に持ち帰って蒔いたところ芽が出て活着した。従来の犬間郷の名を岩松郷と改め、男山八幡宮として祀った。当時の犬間郷は岩松・押切・備前島・阿久津などを含む地域であり、その地の住人である源・平・紀・橘・藤原などの氏神となり郷社として崇敬され、岩松家代々はここで元服をしたという。祭神像は秘神として公開されておらず、境内には尾島町唯一の新田義貞を祭神とする摂社新田神社があり、隣接して小さな公園が設けられている。
 
南北朝時代になって新田荘の実権が新田宗家から岩松氏に移ると新田荘の総鎮守として栄えた。


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勾当内侍の墓(伝・義貞の墓、とも)   太田市阿久津町209  無料駐車場あり  拝観無料  地図は
 こちら
 
後醍醐天皇に仕えた女官で勾当内侍(こうとうのないし)は宮廷の役職名で、帝の近くに仕え勅旨の伝達をつかさどる。彼女の出自は公卿一条行房の娘(妹とも)で、その美しさを愛され後醍醐天皇の寵愛を受けた。後醍醐天皇は建武中興の功績の恩賞として義貞に匂当内侍を与えた、と伝わる。
 
その後の義貞は足利尊氏に敗れて北陸の越前藤島で戦死し獄門にかけられたが、勾当内侍は義貞の首を盗んで義貞と過ごした館に持ち帰り、落飾して菩提を弔ったと伝わっている。新田の南部を流れる利根川の支流早川に近い花見塚神社横には内侍の墓と並んで義貞の首塚が残る。義貞はこの地に内侍の館を建て各地から集めたツツジを植えたと言われ、周辺一帯には江戸の初期まで花が咲き乱れていたと伝わっている。
 
晩年の勾当内侍は嵯峨野の庵で義貞の菩提を弔った、或いは近江堅田で入水自殺した(今堅田の野神神社に内侍の墓がある)など諸説がある。


  

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妙満院大慶寺   太田市新田大根町1000  無料駐車場あり  拝観無料  地図は  こちら
 
新田の三不動の一つ、「泣き不動」がある。牡丹の寺として知られており、花期(5月前後)には3000株が花を咲かせる。この時期の参拝は有料(たしか300円)。
新田義重の娘が剃髪し妙満尼を名乗って夫・義平の首を(現在の清泉寺に)葬り、この綿打郷に移って庵をむすんだのが起源とされ、その跡に新田支族の綿打氏が舘を建てた。明徳五年(1394)になって足利の鶏足寺から空覚上人を招いて大慶寺を開基した、と伝わる。
 
本堂西の不動堂には平安時代の作で鎌倉時代には「新田の守り不動」として保護された不動明王像が祀られている。これは「泣き不動」とも呼ばれ、正安三年(1301)の義貞戦死が報じられると悲しんで泣いた、と伝わっている。この不動明王像は晩年の妙満尼が彫った父義重の木像が一晩のうちに不動明王に変身した事により御影不動と呼ばれ、義重が楯に乗って軍勢を指揮する姿を模したと伝わる明王院の「御影不動」とは別物。本堂の裏手には新田一族の綿打刑部郷太郎為氏の墓が残り、土塁の跡などがかなり鮮明に残されている。
 
新田義重の嫡男が義兼、その嫡男が義房、その嫡男が政義、その次男が大館を名乗った家氏、その長男が為氏。為氏は綿打太郎を名乗っており、大慶寺のある綿打郷を領有して綿打氏の祖となった人物。土佐国古城略史にも「新田綿打入道」として記録されている。(綿打入道は大平記に新田の一族綿打刑部少輔、蓋是の人也)。南北朝時代には子孫が義貞に従って各地を転戦していた。


     

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矢太神(やだいじん)水源   太田市新田大根町253  駐車場あり(ほたるの里公園内)  拝観無料  地図は こちら
 
利根川に流れ込む石田川の源流で、重殿水源(一級河川大川の源流)と並び新田荘の発展に不可欠だった水源として国史跡にも指定されている。新田は大間々扇状地の南端に位置し、標高60mを通る地下水脈が荘園の開発に利用されていた。周辺には縄文時代の集落跡も発見され、今も地下水の自噴現象が見られている。周囲は公園として整備されており、季節には蛍も観察されているらしい。


     

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重殿(じゅうどの)水源   太田市新田大根町253  専用駐車場あり  拝観無料  地図は  こちら
 
現在では工場(三国製作所)の脇で石垣とコンクリートに囲まれた小さな溜池に見えるが透明な水には鯉が泳ぐ一級河川・大川の源流である。湧水としての歴史は古く、「関東裁許状」の元亨二年(1322)には新田の支族である大館宗氏と岩松政経が「一井郷沼水」から流れ出る用水を巡って争った記録が残されている。岩松領の田嶋郷ではこの水を農耕に利用していたが大館宗氏が堀を塞いだため訴訟となり、元通りに復旧するよう北條高時の決裁が行われた。
 
前回訪問した時(2005年)には水量がかなり減っており湧水量の減少が心配されたが、現在では旧に復したようだ。右手の護岸には水神の石祠が3基祀られており、暮しに欠かせない貴重な水源だったことを物語っている。


     

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正法寺   太田市脇屋町562  駐車場あり  拝観無料  地図は こちら
 
義助の遺髪を葬ったとされる石碑が残り、山門には近隣には珍しい見事な二王像が残されている。寺伝に拠れば、経基王(源経基)が開基となり京都醍醐寺を開山した聖宝和尚を開山に迎えて延喜年間(901〜922)に創建された。元暦年間(1184〜1105)に 新田義重が修復し、元弘年間(1331〜1334)には脇屋義助が領有していた由良郷の脇屋村と大般若経600巻を寄進している。旧くは萬明山聖徳院聖宝寺と称したが、義助の死後は法名の「正法寺殿傑山宗栄大居士」にちなみ正法寺とされた。本尊は鎌倉時代初期に刻まれた聖観音で12年に一度の開帳である。
 
義助の死を看取って遺髪を新田に持ち帰りこの寺に葬ったのは歴史に名高い児島高徳で、その後も義助の子・義治を助けて戦ったが利あらず、建徳二年(1371)に新田荘に近い佐貫荘古海(大泉町)の古海太郎広房を頼り定住している。その後は剃髪して備後三郎入道志純義晴を名乗り弘和二年(1382)に高徳寺(群馬県大泉町古海2209)で72歳で没したと伝わる。高徳寺の200mほど南の利根川近くに墓が残されているが全国に多くの諸説もあり、定かではない。


     

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脇屋義助(よしすけ)舘跡   太田市脇屋町178  駐車場なし  拝観無料  地図は こちら
 
土埃の舞う畑の十字路にポツンと石碑が建っている。脇屋町は反町舘など新田宗家の中心部のすぐ東に隣接し、兄の新田義貞に従ってその死後も各地を転戦し伊予国で病没した悲劇の武将の名を今に伝えている。


脇屋義助(よしすけ)舘跡の詳細は 鎌倉時代を歩く 四 の壱 に移動して整理中です。

  

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御室山 金剛院 円福寺   太田市別所町400  無料駐車場あり  拝観無料  地図は こちら
 
新田宗家の第四代総領政義(義重─義兼─義房─政義と続く)が京都仁和寺から静毫を招いて開基した寺と伝わる。境内には5世紀前半に築造された前方後円墳があり、覆屋の中に20数基の五輪塔や層塔が並ぶ新田氏累代の墓所がある。政義は文治3年(1187)〜正嘉元年(1257)の人。父の義房が祖父の義兼より早く死に、13歳で総領を継承した。若年のため義兼の妻が後見して北條一族の縁戚となり、幕府の中枢となりつつあった足利義氏の娘を娶っている。
 
仁治3年(1242)には幕府から預かった囚人に逃げられて怠慢を問われて科料3000疋を課せられ、更に寛元二年(1244)には大番役を勤めた京都で幕府に無許可で定法に背く昇殿と任官を求めて拒否された。政義は独断で出家し大番役を放棄して新田に帰り、更に幕府への出頭も拒否したため所領の一部を公収され、総領権を失って円福寺を建てて隠居した、と伝わる。惣領権は同族の世良田(得川)義季(義重の四男)と岩松時兼が引継ぎ、新田宗家は一族の支配権を失った。政義の愚昧の結果として四代後の義貞の代を迎えるまで、新田宗家は長い不遇の時代を過ごす結果になる。


金剛院円福寺の詳細は 鎌倉時代を歩く 四 の壱 に移動して整理中です。

     

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台源氏舘跡   太田市別所町1559横  駐車場なし・円福寺から400m  拝観無料  地図は こちら
 
新田義貞と脇屋義助の兄弟が生まれた新田朝氏の舘跡と伝わるが確証はない。一説には防衛用の濠に引き込む水利の便が悪いという軍事上の理由で反町舘に移った、とも。周辺は半分宅地化しつつある畑で鎌倉時代の面影はなく、2基の石碑が当時を物語るだけに過ぎない。


  

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威光寺   太田市由良町925  駐車場あり  拝観無料  地図は こちら

          未調査


薗田(そのだ)の名号角塔婆(みょうごうかくとうば)   太田市由良町925  駐車場なし(横の公民館Pが利用可)  拝観無料  地図は こちら
 
薗田(園田)氏は御厨(伊勢神宮の荘園)の荘官として新田荘の北部から桐生にかけて勢力を広げていた氏族。承安2年(1172)には新田義重と領地の境界を巡って争った記録も残る。
始祖の薗田七郎成実は藤原秀郷(俵の藤太)から六代目で足利氏や大胡氏の同族。旧来の仏教(南都六宗・真言宗・天台宗)に飽き足らず法然が開いた浄土宗に成実の四代後の成家が帰依し(1200)に出家、法然に師事した 後に須永御厨小倉(桐生市川内町)に住んだと伝わる。 角塔婆は浄土信仰者が造った石の角柱で四面に「南無阿弥陀仏」の6文字が刻まれており、建てたのはこの地域を支配し浄土宗に帰依していた薗田の一族と推定される。上野には法然の弟子となった武士も多く、大胡氏(成家の 弟・大胡太郎重俊が領有)や薗田氏はその代表格である。


     

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