治承四年(1180)4月、
源三位頼政 に命じられて
以仁王 の令旨を全国の源氏に届けたのが故・
義朝 の末弟
十郎義盛(後の行家)。平家物語には美濃源氏の源頼信、多田源氏の多田行綱、近江源氏の源義経、甲斐源氏の
武田信義 ・
一條忠頼 ・
安田義定、伊豆の
源頼朝、奥州平泉の
源義経の名が載っているが、この部分は後世の補追と考えられている。
甲斐源氏に届けたのは間違いないから、常陸から甲斐を経て信濃へ回るルートを進んだらしい。
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平治の乱(1159)での義盛(行家)は長兄の
義朝 に従って戦ったが敗色が濃くなると早めに戦線を離脱し、熊野別当家の行範(後の19代熊野別当)に嫁いだ実姉(
鳥居禅尼)の縁を頼って熊野新宮に逃げ込んで庇護を得た。以後は治承四年春に以仁王と頼政から呼ばれるまでの約20年間を熊野で過ごしている。
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【 平家物語に拠れば、】.
以仁王と頼政に呼び出された義盛は行家と改名して4月28日に京を出発、近江の源氏・美濃の源氏・尾張の源氏※を回って5月10日に伊豆北條の頼朝に届け(吾妻鏡では4月27日)、更に常陸の 信太義憲(義広)※、木曾の 義仲 を訪ねるべく信濃に向った。
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頼朝挙兵後の行家は鎌倉幕府に加わらず、美濃・尾張などの源氏傍流を結集して第三勢力を目指したらしい。墨俣川合戦で惨敗した後は鎌倉に逃れて所領を求めたが得られず、処遇に不満を抱いて頼朝と距離を置き、やがて頼朝と敵対した信太義憲→ 木曾義仲→ 九郎義経の間を転々とする。義経が平泉に逃れた後は和泉国近木郷(高野山の荘園・大阪府貝塚市)に潜伏中を
北條時定 の兵に捕らえられ、二男家光・三男行頼と共に斬首された。この記録は玉葉(
九条兼実 の日記)に書かれており、吾妻鏡には後日の報告として載せられている。
軍事的才能に乏しく、愚かな権謀術策に頼って嘘を重ねた、安倍晋三の様な人物の末路である。
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【 吾妻鏡 文治二年(1186) 5月25日 】.
一條能保 ・北條時定及び常陸房昌明(延暦寺僧兵出身の臣)の飛脚が行家の首を持って鎌倉に到着。去る12日に和泉国の在庁官人 日向権守清實宅に隠れているとの情報を得て包囲し、裏山に逃げて民家の屋根裏に隠れたのを捕獲し郎党ともども斬首、翌13日には息子の光家も斬首した。 .
※近江源氏: 第五十九代宇多天皇の皇子敦実親王の三男・源雅信を祖とするため宇多源氏とも称される。雅信の四男扶義が近江守に任じ、その子成頼が近江国佐々木荘を本拠と
して佐々木を名乗り、義経−経方−季定−
秀義と続いた。秀義の室は
源為義の娘で、叔母は奥州の
藤原秀衡に嫁した程の名門である。
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保元の乱では
義朝勢に加わり、平治の乱では頼朝の異母兄
義平 に従って戦ったが敗れ、4人の息子と共に秀衡を頼り奥州へ落ちる途中で相模国の
渋谷重国の庇護を受け定住した。頼朝の挙兵当初から4人の息子(
定綱 ・
経高 ・
盛綱 ・
高綱)を従わせ、後に本領の佐々木庄を安堵された。数代に亘って源氏に仕えた譜代の臣であると同時に、自らも近江源氏の末裔である。
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※美濃源氏: 頼光 の子孫である摂津源氏の傍流や
経基 の子・満政(
満仲 の同母弟)の傍流などが美濃に土着した一族。
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※尾張源氏: 上記した満政(満仲の同母弟)の子孫が知多郡に土着し、その後に尾張全域に広がった一族。
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※信太義憲: 義朝の弟で頼朝の叔父。常陸国信太荘(稲敷市)に土着して独自の勢力を保ち、頼朝に敗れた後に義仲と合流する。