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常楽寺の創建は嘉禎三年(1237)で開基は死没する5年前の三代執権
北條泰時※、開山和尚を務めたのは退耕行勇(
栄西 の弟子)、宗派は臨済宗で粟船(ぞくせん)山を名乗る。この一帯は中世以前は入江で、粟を積んだ船が入ったため粟船あるいは大船、それが転じて地名や山号になった、と伝わっている(
地図)。
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元々は泰時の妻が生母を追善して建てた密教寺院だったと伝わっているが、泰時の妻とは正室の
三浦義村の娘(矢部禅尼)なのか継室の安保実員の娘なのか、が判らない。もし矢部禅尼ならば(義村の妻として記録にあるのは
一條忠頼 の娘と
土肥遠平の娘だから)、以後の執権には甲斐源氏の血脈が受け継がれた可能性もある。加えて、元々の密教寺院を建てたのが泰時なのか夫人なのかも、正確には判断できない。
右:鎌倉街道に沿った粟船山常楽寺 鳥瞰 画像をクリック→拡大表示
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まぁ経緯が様々あるにしても、その密教寺院を泰時が鎌倉仏教の主流を占めつつあった臨済宗に改め、五代執権時頼が招いた宗の禅僧・蘭渓道隆が住持して中興した、という事らしい。
建長五年 (1253) に開創した建長寺が禅宗の中心寺院になってから以後も重視された存在だった。
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現在では仏殿の裏にある泰時の五輪塔と、裏山の木曽塚(伝・
義仲 の嫡子
義高 の墓と伝わる)で知られている。木曽塚のすぐ近くにある祠を
大姫 の墓と信じて幼い二人の愛に思いを馳せる歴女も多い。
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山門手前の右手に参詣者用の駐車場があるので、庫裏にお願いして使わせて頂こう。声を掛けるのが面倒ならば、鎌倉街道の信号横にあるローソンで買物して短時間駐車の許可を頼む(私は概ねこのパターン)。
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※泰時と頼朝: 頼朝は
「泰時は他の御家人とは格が違う」と広言し元服では「頼」の字を与えて「頼時」を名乗らせた。頼朝の
没後は泰時に改名しているから、迷惑だったのかも。他にも泰時を贔屓にする数々の逸話が残っているが元服式の例 (下記) は良く知られおり、頼朝の落胤だったと考える説も少なくない。
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【吾妻鏡 建久五年(1194) 2月2日】 泰時の元服.
夜、北條義時 の嫡男金剛 (13才) が御所に於いて元服。定刻に時政が童子を伴って着座、すぐ 頼朝 が出御して加冠 (元服) の儀を行った。大内 (平賀) 義信 と 千葉常胤
が灯明を持って左右に並んだ。太郎頼時と名付けて鎧兜や引き出物が贈られ、里美義成 が剣を手渡した。
次いで宴会となり、頼朝は 三浦義澄 を近くに呼んで「この若者を婿にせよ」と言い、義澄は「孫の中から良い娘※を選んで仰せの通りに」と答えた。 .
※良い娘: 泰時に嫁して
時氏を産んだ義村の娘は落飾した後の
矢部禅尼 )。1210年前後に離縁し (10年程度の結婚生活か?) 、佐原盛連に再嫁した。
三浦一族が滅亡した宝治合戦 (1247) での佐原一族は北條氏に味方して三浦本家を継承し、彼女が産んだ
三浦盛時 が当主となっている。
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左: 参道の入口から山門の方向を。地勢から考えると鎌倉街道から背後の高台までを含む約400m四方ほどが寺域だった、と思われる。
常楽寺が保存している江戸時代の絵図には「境内6600坪」と記してあるらしいから、換算すると約450m四方か。
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中: 山門は如何にも初期禅宗寺院っぽい雰囲気の茅葺四脚門。建立は江戸時代初期、市の文化財指定を受けているが維持管理は大変だ。
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右: 古くは密教系の粟船御堂、建長寺創建より早い建長二年(1250)頃に臨済宗に改めた。扁額左側の「建長素堂」の文字が歴史を物語る。
左: 仏殿に向う石畳左には開山禅師(退耕行勇 )の手植えと伝わる樹齢780年に近い銀杏。石碑には主幹が昭和十三年に倒壊した、とある。
銀杏が国内に入ったのは平安末期から鎌倉初期と言われるから、仁安三年(1168)と文治三年(1187)の二度渡宋した
栄西 から受け継いだ
種子を開山和尚の退耕行勇が受け継いだ、のかも知れない。
中: 正面の仏殿は元禄四年(1691)の建立。元は山門同様の茅葺だったが銅板葺きに改めている。左の文殊堂(萱葺き)には県重文指定の
文殊菩薩(鎌倉時代の作)を収蔵、1月25日にのみ公開される秘仏である。
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右: 仏殿には本尊の阿弥陀如来と脇侍の観音菩薩・勢至菩薩、右に 蘭渓道隆 (南浦紹明の師・建長寺開山) の像を安置する。
本尊台座内側に仁治三年(1242)6月12日の銘があり、重病のため5月9日に出家し6月19日に死没 (共に北條九代記) した泰時が極楽往生を
願って彫らせた、と推定される。
左: 仏殿の裏には三基の墓石があり、これは左の円通大応国師・南浦紹明。宋で修行、晩年に建長寺住職を務め禅僧初の国師号を受けた。
隣には安政四年(1857)に没した再中興 龍淵胤和尚の宝篋印塔もある(この画像は省いた)。
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中: 常楽寺の開基・北條泰時の墓石。宝篋印塔様式の蓮華座は不似合いに無傷だが、他は全体に劣化が激しく一部は失われている。
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右: 改めて山門を出てから左手の小道を裏山へ。実際には山ではなく、100mも登り詰めると住宅街なので拍子抜けしてしまうのだが。
左: 義仲嫡男の清水義高を葬った頂上の木曽塚と小さな墓標。江戸時代末期の地誌「鎌倉攬勝考」に拠れば、元暦元年(1184)4月26日に
入間川で殺されて鎌倉に持ち帰られた義高の首は実検後に常楽寺近くの水田に塚を築いて埋葬、「木曽免」として租税を免除されたという。
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一方で新編鎌倉志※に拠れば、首塚は南西10里(1.1km)にあったらしいが、これに従えば横須賀線を越えてしまうから多分あり得ない。
常楽寺の敷地が6,600坪(450m四方)だった事を考えれば、敷地の中か隣接した水田と考えるのが妥当か。
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江戸時代初期の延宝八年(1680)に現在の塚から見て西南200mで人骨の入った青磁の壺が発見され、義高の遺骨と推定されて常楽寺の
裏山に埋葬し塚とした...とも伝わっている。塚の200m西南=山門の5〜60m左手だが、住宅密集地なので既に昔日の面影はない。
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中: 頂上の少し手前にある石祠は義高と婚約した頼朝の長女・大姫の墓...の噂は捏造。江戸時代に離れた場所からここに移転した義高塚の
そばに、鎌倉時代初期に死んだ大姫の墓がある筈はない。この祠は泰時の娘で
三浦泰村 に嫁した宮姫の墓とも言われるが、泰時の娘は二人
(
足利義氏室と
時房(
北條朝直の四男)室)以外は詳細不明だし、一部史料は「三浦泰平に嫁した」などと書いているし。
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右: 少し離れたもう一つの石祠(狐さんがいるので稲荷に間違いない)から宮姫祠の方向を。個人的には、どちらも古い山神の祠だろうと思うけど。
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※新編鎌倉志:貞享二年(1685)に水戸光圀が編纂させた鎌倉の地誌。光圀が扇ガ谷の英勝院(家康の側室・英勝院、現在の英勝寺)に17日間
滞在して各所を見回り、鎌倉七口・鎌倉十橋・鎌倉十井なども従来の伝承からピックアップしたらしい。若い頃に父の国房に従って
公用に任じた記録はあるが、自分の意志で領外を旅したのはこの時だけと伝わる。もちろん領内の巡回は頻繁に行なっていた。