玄(黒)源太
逸見清光 は甲斐源氏の祖
新羅三郎義光 の孫にあたり、天永元年(1110)に
源義清 の嫡子として産まれた。
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常陸国・現在の茨城県ひたちなか市の
武田郷(別窓)に本拠を置いたが、地元の豪族大掾氏と争って勅勘を受け、父義清と共に甲斐国・現在の市川大門
市河荘(別窓)に配流となった。その後父と共に開拓した逸見地方(北巨摩郡一帯)を拠点にし、茶臼山(北杜市大泉)に
谷戸城を築いた。清光は多くの子に恵まれ、男子を甲府盆地と周辺に扶植して勢力を広げた。
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仁安三年(1168)6月8日、59歳の清光は谷戸城(約4km北)で没して城の西側に葬られた。清光寺に残る位牌には清光院殿玄源太公大居士とある。清光の二男
信義 は釜無川西岸の
武田荘(韮崎市)を継承して勢力を培い、甲斐源氏武田一族の祖となった。長男の
忠頼 ・ 次男の
兼信 ・ 三男の
有義 は頼朝の粛清を受けて失脚し、頼朝に協力した四男の
信光 が家督を相続し、その子孫から甲斐の虎・信玄が現れる。
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清光寺本堂の南麓の農地には八幡大神社が建っている。義清の曽祖父で河内源氏の祖
頼信が長元二年(1029)に甲斐守として赴任し、八ヶ岳山麓に拓いた広大な私牧の中心に京の
石清水八幡宮(公式サイト)を勧請して大八幡宮としたのが起源。その後の武田一族へと続く甲斐八幡信仰の発祥とされている。誉田別命を主神として広大な神領と社殿を所有したが水害で流出し、その後に現在地 (
地図)に移された。ここ大八田の地名は大八幡の名が転訛したもの。