鑁阿寺の伝承は一部が異なり、側女の藤野が慕っていたのは客分として館に逗留していた藤姓足利氏の
忠綱で、彼が藤野を無視したため忠綱と時子の密通を捏造し蛭の入った水を飲ませた...と、週刊誌っぽい話になっている。
このネタ元は判らないが、藤姓足利忠綱は寿永二年(1183)2月の野木宮合戦で頼朝方の
小山朝政連合軍に敗れて西国に逃げた後は消息不明、そもそも藤姓(
藤原秀郷の子孫)足利氏と源姓足利氏(
源義国の子孫)は足利荘南部の領有を争った関係だったし、両者が衝突した野木宮合戦の13年後に義兼の館に逗留する筈がないだろうに。細かい事を言うみたいだけど、邸内の井戸が「花見の際に飲んだ蛭の棲む野水」ってぇのも変だよね。
その後に義兼の庶長子
義純(
畠山重忠の未亡人を娶って畠山の名跡を継承)が法玄寺を建立して時子の菩提を弔った。寺伝では義純の母=時子としているが、義純の誕生は安元元年(1175)で時子が義兼に嫁したのが治承五年(1181)なので、これも年代的に合致しない。義純の実母は不明で、当時21歳の義純が継母の時子を弔って法玄寺を創建したと考えるべき、だろう。
義兼庶長子の義純は新田荘で
新田義重が養育していた事実、義重孫娘(
新田義兼の娘)と結婚して男子二人がいた義純が「畠山の名跡を継ぐ」ため離縁し重忠の未亡人(
北條時政の娘)と婚姻した事実、義兼の正妻時子(北條時政の別の娘)の死に纏わる伝承...歴史の裏に隠された複雑な秘密がありそうだ。