伊豆山の
般若院(別窓)の横から500mほど奥の斜面に大小の古い墓石群があり、ここが本来の密厳院の跡と伝わっている。右側にある自然石の碑には
斎藤別当實盛之墓
※と彫ってある。これはさして古いものではないが、墓石群の下には古い石棺が埋まっており、その上を歩くと祟りがある、との伝承が残っている。
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覚淵の墓所はここだ、と考える説もある。
伊豆山権現(別窓)の社殿から直線なら500mしか離れておらず、簡単には移動できないほど巨大な実盛の五輪塔がある事から考えれば、遠い昔に廃寺となった密厳院がこの周辺にあり、残存した石塔類をここに集めたと推定しても違和感はない。昭和の初期には周辺の斜面に倒れた五輪塔や宝篋印塔が累々と埋まっていたため、農家がみかん畑を拓く際に掘り出しては東京方面にトラックで運び売り払っていたという。
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般若院から坂道を登っても良いし、伊豆山神社本殿から小道を左へ約700m歩いても良い(
地図、目印はホテルのラ・ビスタ伊豆山)。
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※ 斎藤實盛について。
倶利伽羅峠(別窓)に続く加賀国篠原の合戦(石川県加賀市篠原)から敗走する平家軍の中に踏み止まって戦う武者を見た
木曽義仲 の郎党
手塚光盛 は名乗りを挙げ一騎打ちを挑んだ。相手の武者は「首を取って木曽殿に見せれば判る」として名乗らず光盛の郎党を討ち取るが、その隙をついた光盛に首を討たれた。光盛は「義仲さんが知っているからと名乗らず、髪が黒いので若者かと思えば顔は皺だらけ」と義仲に首を見せた。
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実は義仲の父
義賢が武蔵大蔵合戦で
義朝 の長子
悪源太義平 に殺された時、一緒に殺される筈だった幼い義仲を救ってくれた恩人の斎藤實盛だった。義仲が2才の頃には既に白髪混じりだったので70才はとうに過ぎている。老人扱いされるのを嫌がって髪に墨を塗っていたそうで...義仲は恩人の死を深く悲しんだ。
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その後に實盛の子五郎・六郎兄弟が密厳院に遺髪を持参して葬り供養したそうである。實盛の本領は武蔵国幡羅郡の長井庄(現在の熊谷市北部の妻沼)で彼が建てた寺もあるのに、なぜ密厳院に葬ったのか判らない。五郎と六郎兄弟には
頼朝 と
八重姫 の間に産まれた
千鶴丸 の命を救い、その後は伊東の新井に
広誓寺(別窓)を建立した、との伝承も残されている。どこかに斎藤一族と伊豆との接点があったのかも知れない。
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余談...実盛の兜は石川県小松市の多太神社が保存している。兜の詳細と画像は
こちらで。