波多野氏の祖は
源頼義 に従って前九年の役を戦った佐伯経範
※とされる。頼義の相模守任官 (長元元年・1028年) に伴って父の経資が目代として相模国に下向し 波多野に
定住したのが最初で、経範は妻の出自から
藤原秀郷 流の波多野氏を名乗った。一族は源氏の繁栄と共に領地を広げ、現代の国道246号沿い西部と酒匂川中流域の広い範囲を
支配下に置いた。JR山北駅南側一帯の松田郷、小田原市北部の曽我氏と接する大友 (大伴) 郷、松田町と開成町に跨る松田郷、一族が本拠を置いた波多野荘などである。
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※佐伯経範: 前九年の役を描いた史書 陸奥話記 に拠れば、
源頼義に従い戦った相模国の老武者で職位は鎮守府の軍監(三等官)、天喜五年(1057)に勃発した
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波多野氏の系譜は経範−経秀−秀遠−遠義と続き、五代目の
義通 は
義朝 に従って保元の乱(1156年)を戦い、妹が義朝の側室となって庶長子
悪源太義平 の次弟
朝長 を産んだのだが、その四年後に三男の
頼朝 が生まれ(生母は 熱田大神宮大宮司
藤原季範 の娘)、当時の風習に従って家格の高い頼朝が嫡子の扱いを受けた。この経緯で義朝と不和
※になった義通は京を去って波多野荘に定住、平治の乱(1160年)で朝長が没した後は平家に接近した。
義通を継いだ
義常 は平家に臣従し、官位を得て従来の所領を継承した。
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※義朝と不和: 保元物語に(波多野)次郎延景の名で載っているのが
義通 か、又は父の遠義か。
後白河天皇 側で勝者となった義朝は敗者の崇徳上皇側だった父
為義 と5人
の弟(頼賢、頼仲、為宗、為成、為仲)を勅命により斬首した。「東国へ逃がす」と偽って為義を連れ出して斬ろうとした際に、義朝の郎党
鎌田正清 に対して「騙すのは良くない」と抗議し、最期には事情を話して正清の郎党が為義を斬った、そんな話も伝わっている。
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この事件が遠因となって波多野が義朝から離れたのだろう、と考える説もある。余談だが、父の為義と共に斬られる際に五男の頼仲は「兄の義朝は心が卑しく自分だけ生き残ろうとしている。いずれ後悔する事になるだろう」と笑った、と伝わっている。
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そして頼朝は韮山で挙兵する一ヶ月前に協力を求める使者を義常の許に送ったのだが...
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【 吾妻鏡 治承四年(1180) 7月10日 】 .
使者として送った 籐九郎盛長 が戻って報告。相模国には賛同者が多かったが、波多野義常(嘉応元年(1167)に死没した義通の嫡男)と 山内(首藤)経俊 らは招集に応じないだけではなく数々の暴言を吐いた、と。
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二ヵ月後、大軍を率いて鎌倉に入った
頼朝 は富士川に兵を進める際に湯坂道(箱根越え)から足柄道にルートを変えて波多野荘と松田郷を制圧した。追い詰められた義常は自殺し、弟(叔父・従兄弟とも)の
義景 が波多野荘の相続を許された。義常嫡子の有常は母方の伯父
大庭景義 に預けられて生き延び、8年後に許されて松田郷を相続した。それらの経緯については
足柄峠から富士川へ (別窓)を参照されたし。
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話が長くなったが、武常晴が頼った
波多野忠綱 は系図上で義常の弟とされている例が多く、義景との関係などについては判らない。嫡子の
義重 は
北條重時(
泰時 の弟)の娘を妻にして北條氏の被官となり、南波多野荘は重時の所有に変わっている。その後の波多野氏庶流は歴戦の恩賞で得た 丹波、越前、伊勢、長門などに移り土着している。
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さて、
実朝 の首を持ち込む以前の金剛寺はごく小さな規模だったらしい。首を埋葬した
波多野忠綱 と武常晴は
退耕行勇※を招き、木の五輪等を建てて実朝の供養を催した。忠綱は建長二年(1250)の三十三回忌に際して金剛寺の堂塔を整備して再興し、五輪塔を石に改めた。木製の五輪塔は金剛寺の阿弥陀堂を経て現在は鎌倉国宝館に寄託収蔵されている。現物は確認していないが、
こちら(外部サイト)で画像の確認ができる。高さは約150cmほどらしい。
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※退耕行勇: 長寛元年(1163)〜仁治二年(1241)。八幡宮供僧を経て永福寺や大慈寺(廃寺)別当を務めた密教の僧。後に
栄西 の臨済宗に帰依して頼朝夫妻の
支援を受け
高野山金剛三昧院(公式サイト)、北條氏の氏寺である東勝寺(廃寺)、足利氏の氏寺
浄明寺 (wiki) などを開いている。