後三年の戦役最後の地 金澤の柵 

左フレームの表示&「鎌倉時代を歩く 弐」 の記載ヶ所へ      「索引」 へ  「旅と犬と史跡巡りと」のトップページへ

.
世界歴史遺産となった奥州平泉。認定のポイントは「浄土思想を基調とする文化的景観」の名称だが、藤原氏三代の歴史もまた血塗られている。
.
藤原氏の初代 清衡 の父は 藤原経清。前九年の役で安倍貞任 に味方して敗れ、源頼義 に鈍刀で斬られた人物である。安倍貞任の妹だった経清の妻(清衡の母)は幼い清衡を連れて戦役の勝者 清原武貞 の妻となった。武貞の養子として成長した清衡は清原一族の内乱で異父弟の 家衡 に妻子を殺され、後に家衡を殺して陸奥六郡を手中に収めた。
.
凄惨な経験を経て覇権を握った清衡が平和な宗教都市を夢見たのは事実かもしれないが、彼が築いたのは中尊寺の一部だけで、平泉文化の殆どは嫡子の 基衡 と嫡孫の 秀衡 が造り上げている。そして悲しいことに清衡の二男基衡もまた、異母兄の惟常一族を皆殺しにして奥州藤原氏二代を継承している。
.
三代秀衡の治世は大きな戦乱もなく中央政権から独立した繁栄を謳歌したが、庶長子の国衡を抑えて四代棟梁を継いだ 泰衡 は父の遺訓に従って 義経 庇護を主張した弟の忠衡を殺している。この時代に平和な宗教都市など外見だけの姿に過ぎず、僅かに三代の将軍で滅びた源氏と同様に、奥州藤原氏も血の粛清を繰り返して死に絶えてしまう。肉親の死で購った平和など、所詮はただの楼閣に過ぎない、か。
.
  ※清原武貞に再嫁: 出羽を支配した清原氏も陸奥を支配した安倍氏も共に俘囚の長(朝廷に服従した蝦夷)。戦後に武貞が経清の妻 (安倍貞任の妹) を娶ったのは陸奥に根を
張っていた安部一族と融和する目的があったのだろうか。
.
  ※清衡と平泉文化: 安倍氏による長者ヶ原廃寺や白鳥館は別にして、初代清衡が築いたのは初期中尊寺の一部に過ぎない。文化の中心を担った毛越寺を築いたのは二代基衡、
観自在王院を築いたのは基衡の妻(安倍貞任 の弟宗任の娘)、無量光院と柳之御所と伽羅御所と金鶏山周辺の諸施設を築いたのは三代秀衡である。
.
奥州藤原氏も朝廷に金や特産物を貢物とし応分の租税も負担したが、東北が産み出す豊かな富の大部分は藤原氏が握っていた。
頼義義家 が陸奥と出羽を狙い、子孫の頼朝 がその夢を引き継いだのは東北の巨大な経済力が目的だった。
.
  ※独立した繁栄: 近年の研究に基づき、出羽国は奥州藤原氏の完全な支配下に含まれていなかった、と考える説が出ている。藤原氏が支配権を持つ領主としての君臨ではなく
在地の領主や一部の荘園などを介した間接的な支配に留まっていたのではないか、と。

衣河館と豊田館の地図 右:真衡の衣河館から豊田館にかけての地図    画像をクリック→拡大表示
.
前九年の役は謂わば東北のネイティブに近い存在だった安倍一族に対して服属を要求した大和朝廷との戦いだったが、後三年戦役は外部の敵による侵略ではなく、発端は清原一族内部の支配権争いである。その内紛に利権目当ての義家が加担した、という事だ。
.
安倍氏を滅ぼした 清原武貞 は鎮守府将軍に任じて奥州の支配権を握った。武貞を継いだ嫡子 真衡 は出羽国司 平安忠 (海道平氏。常陸平氏とは別系) の次男成衡を養子に迎え、更に源頼義の娘を成衡の嫁にして家格を高め、源平双方との血縁を深めようとした。
.
清原氏と海道平氏は出自が近いとも言われるから、系図の補強を兼ねた格上げの意味を持っていたのだが、同時に清原一族の血脈が失われ異なる氏族出身の棟梁の支配に組み込まれる事を意味する。一族の離反が起きる可能性を醸成するリスクも伴っていた。
.
成衡の婚礼を控えて出羽から同族の長老 吉彦秀武 が砂金を捧げて訪れたが、囲碁に熱中していた真衡は長時間待たせてしまった。憤激した吉彦秀武は庭に砂金を投げ捨てて帰国し、その態度が族長の権威を傷付けると考えた真衡が討手を率いて出羽に向かった。
.
吉彦秀武の本拠は出羽国荒川 (大仙市協和付近か)、真衡の本拠 (推定 奥州市付近) からは現在の国道107号ルートで和賀を越え、横手経由で120km以上離れている (ルート地図) 。真衡が出羽に向かう途中で吉彦秀武から依頼を受けた異母弟の 家衡 と清衡が豊田館から出兵して衣河館を襲う気配を見せたため、これを警戒した真衡は出羽遠征を中断して衣河館へ引き返した。

.
沼の柵と金澤の柵 左:豊田館を焼いた家衡が籠った沼の柵と金澤の柵    画像をクリック→拡大表示
.
ちょうどその直後に 八幡太朗義家 が新しい国司として着任した。数日間の饗応を済ませた真衡は再び出羽に出兵したのだが、この機会を利用した清衡と家衡が再び衣河館を襲撃、これには義家の郎党が駆け付けて真衡の留守部隊も奮戦し、清衡と家衡は降伏した。これで一族の内紛は終わったかに見えたのだが...今後の清原一族を完全掌握する筈だった真衡が出羽遠征途中に病没してしまう。
.
ここで義家が戦後処理に乗り出し、陸奥六郡の北半分を家衡が、南半分を清衡が領有する裁定を下して決着を図った。
.
しかし豊かな穀倉地帯である南部を得られなかった家衡がこの裁定に不満を持ち、豊田館に放火して清衡の家族を皆殺しにし、約90km離れた出羽の国沼柵に逃げて立て籠った。運良く生き残った清衡と義家は直ちに軍を起こして沼の柵を攻撃したが、厳冬期に入ったため飢えと寒さに苦しみ、多くの損害を出して撤退を余儀なくされる。
.
武名の高い義家を破った事を喜んだ家衡の叔父 武衡 も兵を引き連れて沼柵に合流して義家・清衡連合に対抗した。
.
  ※沼の柵: 横手市雄物川町沼館の 蔵光院(紹介サイト)一帯と推定。高低差5〜6mの段丘先端で要害とは言い難く、金澤の柵へ
の移動は合理的な作戦だったらしい。
.
再び攻め寄せる筈の義家・清衡連合軍と戦うため、武衡の進言を容れた家衡は平坦で守りにくい沼の柵を捨てて北東20kmの要害・金澤の柵に入って籠城の態勢を整えた。
激戦を重ねても長い間落ちなかったが、吉彦秀武の建策した兵糧攻めにより遂に陥落、家衡・武衡一族は討ち取られて後三年の役は終わった。
.
沼の柵から金澤の柵に進攻する途中の西沼が「雁行の乱れ」の舞台、金澤の柵から逃げた家衡が隠れたのが蛭藻沼、と伝わっている。しかし、なぜ真衡は二度目の出羽出兵前に清衡と家衡を討伐しなかったんだろう。至近距離の敵を放置して遠征するなんて理解できないね。


     

           左: 義家軍を狙った伏兵が潜んだ「雁行の乱れ」の跡と伝わる西沼の周辺は歴史公園として整備されている。
私が最初に訪問した2006年はかなり荒れていて勿論観光客の姿もなく、背後の太鼓橋(雁が飛ぶ隊列をイメージしたらしい)は橋桁が腐って
危険な状態だったが、奥羽本線の後三年駅から1km程の距離だし、近くには立ち寄り温泉の 湯とぴあ もあるから、お薦めスポットかも知れない。
西沼の周辺では石器や土器・平安時代の骨壷や先住アイヌ民族の住居跡も発見されているらしい。
.
           中&右: 南北朝時代に描かれた「後三年合戦絵巻」(東京国立博物館収蔵・重要文化財)。絵と文章で合戦の様子を如実に伝えている。
ただいま現代語に変換中で、今年(2012年)の3月末には掲載できると思う。左は草むらに潜む家衡の兵士、右はそれを射る義家軍。
現物の画像は 国立博物館のサイトで閲覧できる。まったく便利な時代になったものだ!


     

           左: 景正功名塚麓の厨川は 景正 が射られた目を洗った場所で、この川に棲む鰍(カジカ)には右目が見えない個体がいるって本当かな(笑)。
南に離れている蛭藻沼は陥落が迫った金澤の柵から脱出した家衡が義家軍の兵に見付かって討ち取られた場所と伝わっている。
.
           中: 少し北にある道の駅「雁の里せんなん」の前から。右隅の建物が資料館、背後の小山全域とその周辺が後三年の役最後の戦場となった。
.
           右: 白塀に囲まれた左の建物が後三年の役資料館(入館料100円、費用対効果は大きい)、その左が国道13号、右の山裾に旧羽州街道が
通り、その先が金沢の柵古戦場の跡になる。


     

           左: 金澤の柵の全体図。道路に沿った駐車スペースのすぐ上が金澤八幡宮、柵の本陣は右手の一角だが、本丸や二の丸は後世の呼称で、
後三年当時にその概念はなかった。十文字を描く頂上が金澤の柵の中枢部分となる。
.
           中: 旧道から柵の跡への入口にある金沢公園。この一帯の地名が権五郎塚、16歳で参戦した鎌倉権五郎景正が義家の命を受けて敵味方を
問わず戦死者の亡骸を手厚く葬ったと伝わる塚が公園の奥に残されている。
.
           右: 覆屋の下には権五郎景正が慰霊のため植えた杉の残骸。昭和二十三年(1948)に山火事に類焼したが根元部分だけが辛うじて残った。


     

           左: 戦役の終結は寛治元年(1087)だから、本当に景政が植えたのなら樹齢861年か。権五郎景正の本領は現在の藤沢市村岡東(地図)の
付近、或いは由比ガ浜とも伝わっている。村岡東は子孫 梶原景時 本領の梶原郷とは目と鼻の先に位置する。
.
           中: 陸奥国から帰った景政は長治年間(1104〜1106年)に相模国高座郡(藤沢市の一帯)に広大な農地を開墾し、永久四年(1116)には
伊勢神宮に寄進して大庭御厨を立荘した。その後の景政の消息は定かではないが、長承四年(1134)には子の景継が御厨の下司(代官)を
勤めた記録があり、実質的な所有権が子孫に継承された、らしい。
.
           右: 権五郎塚から舗装路を500mほど登ると金沢八幡宮の参道に至る。石段の下には駐車場が整備されている。

           権五郎景政: 何よりも合戦で右の目に敵の矢を受けた逸話が名高い。奥州後三年記(wiki)の記述は下記の通り。
.
(義家の軍勢に)相模国の住人鎌倉権五郎景政という者がいた。年は16歳、大軍を前に命を惜しまず戦った時に右目を射抜かれ、
矢は兜の裏まで刺し貫いた。景政は射返して敵を討ち取り、引き上げて兜を脱ぎ傷を負ったと言って仰向けに倒れた。
.
同じ相模の武者で同様に武名の高い三浦平太為次が履物を脱がずに顔に足を掛け矢を抜こうとしたところ景政は刀を握って下から
為次を刺そうとした。為次が「何をする」と叫ぶと、景政は「矢を受けて死ぬのは武者の本分だが顔を足で踏まれるのは我慢できない、
貴様を殺して俺も死ぬ」と答えた。為次は返事が出来ず、膝をかがめ頭を押さえて矢を抜いた。周辺の武士は景政の豪胆さに驚く
ばかりだった、と。
.
           三浦為次: 系譜では三浦義明の祖父で景政の叔父に当る。左フレーム「坂東平氏の系図」の三浦氏系統を参考に。でも医学的にど〜なんだろ。
片目を射抜かれたら両眼の視力を失うような気がするんだけど。眼科医に会う機会があったら聞いてみよう。
.
私が小学生だった頃、若い時に戦争に行った人が時々我が家に遊びに来ていた。すぐ近くに砲弾が落ちて爆発の衝撃で両方の目玉が
飛び出し、急いで見付け出して汚れを落とし元に戻した、と話してたっけ。幼かった私は疑いもせず、ただ感動して聞いておりましたよ。


     

           左: 八幡宮本殿に登る参道の折り返し点にある兜杉。功名塚の杉に似ているけど、こちらは金澤の柵を落した義家が戦勝記念に清衡に命じて
植えた樹の残骸。樹高26m・樹齢900年だったが功名塚の杉が焼けてから35年後(昭和58年)の山火事で根元を残して燃え尽きた。
.
           中: 兜杉の右が義家と義光を祀る兜八幡神社。義家は凱旋する際に杉を植えると共に愛用の兜を埋めてその上に石を置いた、と伝わっている。
.
           右: 兜を埋めた上に置いたのが兜石、兜八幡の名の起源である。本当に埋めたとしても既に朽ち果てて土に帰っているだろうけどね。


     

           上: 金澤の柵が陥落して後三年の役が終った寛治七年(1093)、義家は清原清衡に命じて石清水八幡宮を勧請し、柵の跡に社殿を建立した。
義家の応援に馳せ参じた弟・新羅三郎義光を祖とする常陸佐竹藩は累代の藩主が金澤八幡宮を崇敬し、慶長九年(1604)から数度改修、
現在の社殿は大正十五年(1926)に改築ししたもので、平成十三年(2001)に屋根の葺き替えを行っている。
.
           中: 祭神は誉田別名(十五代応神天皇)、やや蛇足だが、この地区は納豆発祥の地とされている。義家は合戦の際に周辺の農民に命じ煮豆を
供出させた。数日後に開くと、良い香りを放っている。食べてみると美味だったため糧食にし、農民たちも作り方を後世に伝えた、という。
.
            右: 拝殿の右に回って本殿を撮影。祭神は誉田別名(十五代応神天皇)。蛇足だが、この地区は納豆発祥の地とされている。


   
     

           左: 社殿の建つ平場は「二の丸」の跡。拝殿から見ると右側が(無住の)社務所、左側の神馬は帝室御賞典で三度の優勝を飾った名騎手の元石吉太郎氏
が奉納した像で、高さ255cmの青銅製。昭和十一年(1936)に完成し、辛うじて戦争中の供出を免れた。
.
           中: 金澤(かねざわ)八幡宮は毎年9月14日の夜から翌朝まで続く県の無形文化財 掛唄大会が知られる。今では静寂そのものだが、凄絶な殺戮が
行われた場所である。
.
奥州後三年記に拠れば...家衡の乳母夫・千住丸は櫓に立ち大声で義家を罵った。
.
「汝の父頼義は安部貞任を討伐できず、名簿を捧げて清原武貞将軍に懇請し、その力を借りて何とか貞任を討つ事ができた。その恩も忘れ、
家臣にも拘らず重恩の主君を攻める。天罰が下るに違いない」と。義家は言い返そうとした兵を止め「千住を生け捕った者には命でも与える」と
言った。 そして柵は落ち、捕虜となった千住丸は義家の前に引き出された。
.
義家は「あの日の言葉をもう一度言ってみよ」と迫ったが千住丸は返事もできなかった。義家は郎党に命じて金串で千住丸の歯を突き破り舌を
切った。更に後ろ手に縛って枝に吊り下げ、下に武衡の首を置いた。千住丸は泣きながら足を縮めたが、力尽きて主人の首を踏んだ。
.
           右: 八幡宮に向って左手は「北の丸」跡、三方が切り立った崖になって落ち込んでいる。現在は相撲場が造られている。
.
             ※帝室御賞典: 天皇賞の前身。1905〜1944年まで行われ、1947年秋から天皇賞となり春は府中・秋は京都で開催する。
.
             ※名簿を捧げて: 古代から中世には相手に従属する証として自分の官位や氏名(みょうぶ)を書いて差し出す習慣があった。


     

           左: 「北の丸」から社殿の裏手を通って「本丸」の方向へ。途中の兵糧蔵の跡からは今でも焼けて炭化した米などが発掘されている、らしい。
.
           中: 八幡宮裏手の平場が金澤の柵の中枢部分「本丸」の跡。現在でも掘建て柱の跡が残っているという。ただし、室町時代には南部氏の子孫金沢氏が
居城とし、江戸時代には佐竹氏が居城の候補として整備しているため時代的な確証は得られていない。
.
           右: 本丸跡東側の遊歩道を約100m下って籠城の水源である金洗い清水へ。「奥州後三年記」に拠れば義家軍は9月に金澤の柵を包囲して
11月14日に陥落した。吉彦秀武が建策した、記録に残る最古の兵糧攻めと伝わっている。水源を奪われたのも大きな要素だったと思う。


     

           左: 水源は緑に囲まれ、手入れも行き届いている(麓の祇園寺周辺の住民が管理しているらしい)。本丸からの標高差は約30m、東麓から
約50mの標高差だから、寄せ手が水源を奪うのは比較的容易だった筈だ。ちなみに、秋には熊の出没に要注意、らしい。
.
           中: 沢沿いに300m下ると金澤の柵の鬼門を守り、後に八幡宮別当寺になった祇園寺。周辺は金洗い沢と呼ばれ「金澤」の語源になった地だ。
祇園寺は秋田三十三観音の十三番札所で、雰囲気の良い古刹である。撮影漏れなので、「横手 祇園寺」で検索を。
.
           右: 金澤の柵から2kmほど南の蛭藻沼。逃亡した家衡は端を切り落とした刀の鞘を咥えて水中に潜んだが、追っ手に発見され討ち取られた。
この一帯は義家が最初に布陣した経緯から昔は陣が森と呼ばれ、その後に御所野となって現在に伝わっている。

この頁は2022年 8月 10日に更新しました。