富士宮郊外 伝・平惟盛(維盛)の墓と沼津の六代松碑 

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父の 重盛清盛の嫡男として将来を嘱望された逸材だったらしいが、安元三年 (1177) 6月に打倒清盛のクーデター計画 鹿ヶ谷陰謀事件 (wiki) が勃発、首謀者の
一人は政治的立場が重盛に近かった藤原成親で、重盛の嫡子・惟盛の正妻の父だった。7月に成親が配流先の備前国で殺された後の重盛は急速に政治の意欲を失って
事実上の隠退生活を送り、治承三年(1179)7月に病没した。次代の平家を担う筈の逸材を失った平家は坂道を転げ落ちるように衰退する。
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  ※重盛の失意: 直接的には藤原成親の粛清だが、平家物語は政治理念の異なる清盛を対比して軋轢を匂わせている。「傲慢な清盛 vs 良識人の重盛」、と。
むろん額面通りには受け取れないが、重盛は「忠ならんと欲すれば孝ならず、孝ならんと欲すれば忠ならず」と苦悩していた。
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有名なこの文言は平家物語が原典なんだね。「悲しきかな、君の御為に奉公の忠を致さんとすれば迷盧 (判断に迷い) 八万の頂よりなほ高き
父の恩忽ちに忘れんとす。痛ましきかな、不孝の罪を遁れんとすれば君の御為には不忠の逆臣となりぬべし。」
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重盛没後には清盛も病没し、後継は重盛の次弟 宗盛。これが知盛重衡 だったら平家の命運も違った可能性はあるが、妻の父が反逆を企てた藤原成家だったのが
影響して 惟盛 は一門の主流から外れてしまう。更に富士川合戦・倶利伽羅峠の合戦・篠原の合戦を指揮して全て敗北 (惟盛の能力だけが敗因ではない) 、維盛は
寿永三年 (1184) の一ノ谷合戦前後に戦線を離脱した。平家物語「は高野山で出家した後に熊野を経て那智の沖で入水した」、と書いている。
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最も信頼されている墓所は奈良県十津川村五百瀬の旧南望山宝蔵寺 (奈良県紹介のサイト) だが、その他 紀伊半島にも多くの墓が伝承されている。


     

           左: 山裾の棚田に残る惟盛墓の遠景(地図)。道路際には案内板も目印もなく、見当をつけてJA支所横の急な坂を登らねばならない。
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           中: 途中には「稲子の棚田は風情のある名所で...」などと書かれた看板があるが殆どが休耕田で、周辺はかなり荒れている。
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           右: 江戸末期の再建とは何とも惜しい。古い状態で残っていれば真偽を確かめる可能性もあったと思うが、ただの伝承と考えるべきか。


     

           上: 惟盛の墓から40km南東の沼津千本松原に惟盛の嫡子・六代の墓があるのも宿縁か。平家物語巻十二の七・六代などに拠れば、
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頼朝の代官北條時政は小松三位中将惟盛の嫡子六代を探し出し斬ろうとしたが文覚上人が頼朝の元へ命乞いに走り、鎌倉へ送る途中の千本松原で
斬られる寸前に辛うじて赦免の書状が届いて助命され、付き従った郎党の斎藤五宗貞・斎藤六宗光(實盛の息子)ともども喜んだ。
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六代は文覚の庇護を受けて文治五年 (1189) に16歳で出家、建久十年 (1199) 1月に頼朝が死没すると文覚は庇護者を失い朝廷に対する
反逆の罪を問われて隠岐に流された。神護寺にいた六代 (法名を妙覚) も連座して斬首、時代の流れに振り回された一生だった。
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従者は思い出の深い千本松原に首を葬った、と伝わる。平家物語の記述は杜撰で、史実との食い違いが大きい。地元の伝承では六代の首の
埋葬は斎藤六範房、約2km南東の下河原に住み菩提を弔った、と。範房の孫 利安は日蓮に帰依して名を日安とし、自宅を妙覚寺に改めている。
ここには中学時代に下宿していた井上靖の文学碑もある。
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六代松碑建立の主導は沼津の学者田中仲二郎、隣地にある妙伝寺の檀家だった関係で墓地の一角を利用したらしく、彼自身の墓も妙伝寺にある。
地図は こちら、駐車スペースなし。路駐または千本松原付近の空き地にも停められる。

この頁は2022年 7月 9日に更新しました。