現在は
毛越寺 の管理下にある高館(判官館)は
義経が自害し火を掛けて自害した居館の跡と言われてきたが、実際の判官館は更に北西・関山中尊寺北麓の衣河館(
接待館 か、或いはその近く)の
藤原基成 の館だったとする説の説得力が高い。
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泰衡 の本拠だった
柳之御所 から500北にある高館は奇襲の気配を隠すには近すぎるし、義経主従の応戦を「衣河合戦」と呼ぶにしては高館と衣川は離れ過ぎている。
吾妻鏡の記載と地理的要件を加えて判断するなら、義経の最期が高館だとする根拠は明らかに不足している。
高館の頂上にある義経堂と義経像は江戸時代の天和三年(1683)に仙台藩第四代藩主・伊達綱村(政宗の曾孫)による建立で、隣接する収蔵庫には高館一帯から出土した農具や武具が展示されているが、特に興味を惹く物はない。
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むしろ平泉随一とされる北上川の展望を楽しんだり、義経堂が建った6年後の元禄二年(1689)に奥の細道を辿って高館を訪れた松尾芭蕉が義経主従を偲び、
「夏草や 兵(つわもの)どもが 夢の跡」と詠んだ物語に想いを馳せる方が遥かに楽しい、と思う。
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【吾妻鏡 文治五年(1189) 閏4月30日】.
今日陸奥国で 泰衡 の兵が義経を襲撃した。これは朝廷の意向であり同時に 頼朝 の意向でもある。義経は藤原基成※の衣河館にあり、追討に向った泰衡の兵数百騎を義経の家人が防いだが全て討ち取られ、義経は持仏堂に入ってまず妻 (22歳) と娘 (4歳) を殺して自殺した。前伊予守従五位下・源朝臣義経31歳、左馬頭義朝の六男、母は九條院の雑仕女 常盤、云々。
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【吾妻鏡 文治五年(1189) 5月22日】.
奥州からの飛脚が鎌倉に着いた。去る閏4月に前の民部少輔(藤原)基成の居館で義経を殺し、首を鎌倉に送る旨を泰衡が伝えてきた。
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※藤原基成: 奥州藤原氏末期の政治顧問。父は白河院近臣の大蔵卿藤原忠隆、異腹を含め兄弟が8人 妹が2人いる。妹の一人は関白藤原基実の側室(正室は
清盛の娘盛子)
として基通(後の関白)を産み、もう一人の妹は藤原隆季に嫁して後の大納言隆房(平家都落ちに同行せず後白河院の近臣として勢力を維持)を産んだ。
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基成は20歳前後で康治二年(1143)に陸奥守・鎮守府将軍として平泉に赴任、豊富な人脈を生かして二代基衡と朝廷の関係を調整し、奥州藤原氏の安定に寄与した。更に
基衡 の嫡男
秀衡 に娘(四代泰衡の生母)を嫁がせている。秀衡にとって基成は義父であり、政権運営の顧問として働いていた。
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後白河院政が始まった保元三年(1158)以降の関白は基成の甥・近衛基実だから、朝廷との関係を円満に保つために多大な貢献をした、と考えられる。
牛若(後の義経)の生母・常盤が再婚した一條長成の母は参議藤原長忠の娘で、その姉妹は藤原基隆に嫁ぎ忠隆を産んでいる。従って牛若が平泉に逃げた背景は、常盤→長成→基隆または忠隆→基成→秀衡の人脈に頼った、と言う経緯になる。
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そして、ひょっとすると秀衡が没した後の平泉は、朝廷との人脈に頼って政権維持を目指す基成と、鎌倉との武力対決やむなしと考えた義経と、頼朝に従属して生き残りを図りたい泰衡と、この三者の思惑が複雑に絡み合っていたのかも知れない。
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更に想像すれば、頼朝挙兵を知った義経が関東に向おうとした時に秀衡が止めようとしたのは単純な愛情ではなく、将来の「頼朝vs平泉の対決」を予測して義経の温存を願ったのではないか、とも考えられる。義経が平泉を発った治承四年(1180)から7年後の文治三年(1187)、鎌倉との関係悪化を覚悟して義経を受け入れたのは、頼朝と対決するには凡庸な嫡男泰衡の能力では不足するのを見通したからだろう。
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【玉葉 文治三年(1187) 10月29日】.
秀衡が平泉の館で没した。日頃から重病のため、「義顕(義経)を大将軍として国務を執り行え」と嫡男の泰衡らに遺言した、と。
鎮守府将軍兼陸奥守 従五位上 藤原朝臣秀衡法師 出羽押領使基衡男。 嘉応二年(1170)五月二十五日 鎮守府将軍に任じ 従五位下に叙す。養和元年(1181)八月二十五日、陸奥守に任ず。同日従五位上に叙す。
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【吾妻鏡 文治四年(1188) 1月9日】.
ある人が言うには、去年の9〜10月に義顕(義経)は奥州の秀衡に匿われていた。10月29日に秀衡死去の際に息子(兄は庶長子の国衡、弟は正室の子泰衡)を呼んで泰衡を自分の側室と婚姻させ※、それぞれに異心を持たぬ旨の起請文を書かせた。また義顕にも同様に起請文を書かせ、兄弟二人が義経を主君として仕えるよう遺言した。三人が心を合わせて頼朝と戦うための計画を巡らせ、と。
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※義母と婚姻: 兄弟は争うこともあるが、形式的であっても親子関係にすれば防げるかも知れない。藁にでも縋りたかった秀衡の願いだろう。
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軍事的な才能に長けていた義経があっけなく死んだ事、当時の北上川は高館直下を蛇行していたから脱出ルートを確保できた事(実際には現在よりも東に離れていたらしい)、義経の首が異様に長い日数で鎌倉に送られた事(死んだのは太陽暦の6月15日で鎌倉到着は8月4日、腐敗の早い真夏の50日を費やした)、北に向かって義経の足跡らしき痕跡が数多く見られる事、などが「義経生存説」のスタートになっている。
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ちなみに、「義経=チンギス・ハーン(成吉思汗)説」を広めたのはドイツ人医学者のシーボルトで、彼はこの話をオランダ語通詞の吉尾忠次郎から聞いて信じた。
近年では高木彬光が著した「成吉思汗の秘密」(昭和33年(1958)初版)が実に面白かった(虚構と仮定の多さには辟易だが)。チンギス・ハーンつまり義経は愛する静女に自分の存在を誇示するためモンゴル帝国を築き上げた。異民族の反感を危惧して「義経ここにあり」と叫べなかったのだ、と。「義経 生存」で検索すると膨大なサイトが閲覧できる。異説に耳を貸さないマニアが多いのは歴史に関するサイトでは当たり前、鬱陶しいと感じる意見も我慢して受け止め、知識の吸収に努めよう。