朝長の首が葬られた高林山積雲院 

 
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建久六年(1195)、以仁王挙兵の際に焼かれた南都東大寺が頼朝の寄進などにより再建された。吾妻鏡には東大寺再建供養に出席するため上洛した頼朝の行動が記録されているが、積雲院に立ち寄った記録は見当たらない。
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積雲寺のある袋井に近い磐田に残る伝承に拠れば...頼朝に同行した幕府文官の日誌に4日間の空白があり、この時に頼朝は近くの池で朝長供養の放生会を行い、黄金の札を付けた多くの鶴を放鳥した、との内容である。以後は鶴ヶ池と呼ばれ、600年以上が過ぎた幕末の頃には札を付けた鶴が捕獲された。鶴の寿命は千年、頼朝が放った鶴だろうと噂した。鶴ヶ池は積雲院の8km南、東名高速の磐田ICと袋井ICの中間南側に現存し( 地図 )、今でも水鳥と水生植物が豊からしい。
磐田市の自然公園 桶ケ谷沼ビジターセンター(磐田市のサイト)で詳細を確認できる。


右:朝長の首級を葬ったと伝わる袋井の高林山積雲院  画像をクリック→拡大表示
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頼朝は建久元年(1190)10月出発と建久六年2月出発の2回上洛している。
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吾妻鏡に拠れば、建久元年の往路は10月13日に菊河(菊川市)・18日の橋本(湖西市)で、義朝が死んだ野間(別窓)と朝長が死んだ青波賀(青墓)に立ち寄った記録のみ。帰路は12月20日橋下(橋本)〜21日池田(磐田)〜22日懸河(掛川)〜23日嶋田(島田)〜24日駿河国府〜25日奥津(興津)〜26日黄瀬河(三島)〜27日竹下(足柄)〜28日酒匂(小田原)〜29日鎌倉と、何とも味気ない。
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建久六年の場合、確かに京からの帰路は12日なのに往路には18日を要しているから、単純に考えれば数日の空白はある。平治の乱の苦しかった思い出が甦ったかも知れないが、いずれにしろ積雲院を訪れた正式な記録はない。

吾妻鏡 建久六年(1195)  頼朝上洛の記録
 
    2月14日・・・東大寺再建供養に列席するため頼朝が鎌倉を出発。御台所政子 大姫頼家を同伴、前陣は畠山重忠
    3月04日・・・近江国鏡の宿から勢田を経て(勢田橋を騎馬のまま渡るとき多少のトラブルあり)六波羅の宿舎に到着。
    3月09日・・・京都東山の若宮八幡宮社に参拝し、石清水八幡宮に参籠した後に南都(奈良)に入った。
    3月10日・・・石清水八幡宮から直接東大寺に到着し東南院に入った。前陣は畠山重忠、後陣は梶原景時 千葉新介胤正
    3月12日・・・再建供養のため東大寺に入った。先陣は畠山重忠・和田義盛ら、後陣は下河邊行平 佐貫広綱 武田信光 ら。
 
    3月13日・・・大仏殿に参詣。造像を指揮した南宋の工人陳和卿は頼朝が源平合戦で多くを殺した事を理由に面会を固辞し拒んだ。
 
            感動した頼朝は甲冑・鞍・馬3頭・金銀を贈ったが陳は釘に加工するための甲冑と寺に寄進するための鞍のみを受け取った。
 
    3月14日・・・南都を出て京へ。この後は6月24日に下向の挨拶をするまで再三参内した。政子と大姫は各所を観光して廻った。
 
    6月25日・・・京を出て関東に向った。
    6月28日・・・美濃国青波賀(青墓)に到着。飛脚が稲毛重成の妻(北條時政娘)の重病を報告し、頼朝が与えた駿馬で出発した。
 
    6月29日・・・尾張国萱津(名古屋市の西、現在のあま市)に到着。
 
    7月01日・・・熱田神宮に奉幣。この日、稲毛重成が武蔵国の館に到着、頼朝の与えた駿馬は龍の様だった、三日黒と名付けた、と。
 
    7月02日・・・遠江国橋下(静岡県湖西市橋本)に到着。
 
    7月04日・・・稲毛重成の妻が死去。重成は落ち込み、すぐに出家してしまった。
 
    7月06日・・・黄瀬河(静岡県沼津市)に到着。
 
    7月08日・・・鎌倉に帰還。


     

           左: 安政年間(1854〜1859・十三代将軍家定の頃)に建てられた庫裏には鎌倉時代の須彌壇や不動尊像が残されている。
 
           中: 毎年8月15日には300mほど北の御沙汰神社から慰霊墓まで念仏を唱えながら渡る「源朝長公御祭礼」(無形文化財)が行われる。
 
           右: 頼朝は建久元年(1190)に家族を連れて上洛している。美濃青墓には立寄っているが、ここ積雲院についての記述はない。


     

           左: 覆屋で保護された廟所。寺伝は3基の五輪塔は頼朝建立の義朝・ 義平 ・朝長の供養墓とされるが詳細は不明、吾妻鏡にも記載はない。
 
           中: 義朝の五輪塔を中央に、義平と朝長の慰霊墓が左右に並ぶ。形状は確かに鎌倉初期の作だが、頼朝が素通りした(らしい)のは何故か?
 
           右: 積雲院のすぐ南の大谷地区。朝長の首をこの地に葬った守役・大谷忠太の本領で、殿ヶ谷には館跡とされる場所も残っているらしい。