寺伝に拠れば野間大坊・大御堂寺は天武天皇(在位673〜686年)の頃に役行者(
役小角)が建立し、聖武天皇(在位724〜749年)の頃に行基が中興した。また室町時代の縁起記録は白河天皇(在位1073〜1087年)が勅願寺(国の安泰や皇室の繁栄を願って建てる寺)としたと書いているが、いずれも確証はない。正式には平治元年(1159)の
義朝の死後、菩提を弔っての建立らしい。頼朝と野間大坊の関わりを(時系列を無視して)追い掛けると...
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【吾妻鏡 文治二年(1186) 閏7月22日】.
前の廷尉平康頼法師を阿波国麻殖保の保司(末端の行政組織「保」の長)とする沙汰があった。尾張国野間庄の故 義朝公の墓は訪れる者もなく草に覆われる状態だったが、康頼は尾張守在任中に水田30町を寄付し小堂を建て僧6名を置いて供養していた。この功に報いるものである。 .
【吾妻鏡 建久元年(1190) 10月25日】.
上洛途上の 頼朝は尾張の御家人・須細治部大夫為基の案内で義朝廟堂を参拝した。荒れ果てた姿を想像していたが荘厳な寺で多数の僧が読経していたため仔細を尋ねると、前の廷尉平康頼法師(元平氏の家人で無官の散位)の配慮だった。頼朝は感心して数々の寄進を行った。.
大御堂寺(フルネームは鶴林山無量寿院大御堂寺、真言宗)の伝承に拠れば、建久元年に立ち寄った際に頼朝は伽藍整備を命じて大門を寄進し、自分の守り本尊である地蔵菩薩像(助命を嘆願してくれた
池の禅尼(
清盛の継母)から貰った像)を納めた。石橋山合戦の際に髷の中に納め、岩窟に隠した小さな仏像である。ただし、この伝承は吾妻鏡の記述(下記、治承四年の項)では「乳母から貰った」事になっている。伝承が伝承に過ぎない由縁だろうか。
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【吾妻鏡 治承四年(1180) 8月24日】.
(土肥の椙山で)頼朝は髪を束ねた髻の中から観音像を取り出し洞窟に安置した。 土肥實平がそれを尋ねると「私の首が(敵将の) 大庭景親に見られた時にこの本尊が見つかって源氏の大将軍に相応しくない所業だと侮蔑されないためだ。これは私が三歳の時、乳母が清水寺に参詣して私の将来を祈った際に夢のお告げがあって得た二寸の銀の観音像である。」と答えた。.
境内には義朝の首を洗った血の池、寺を整備した平康頼の供養塔、鎌倉五代将軍
藤原頼嗣寄進の梵鐘、頼朝助命に尽力した池の禅尼の供養塔、信長の三男で秀吉と戦って敗れ自刃した織田信孝の墓などがある。また野間大坊の東の水田には長田屋敷の跡(痕跡なし)、更に1300m東の法山寺には義朝殺害現場の湯殿跡、後に長田親子を板磔にして死骸を捨てた磔松という場所も残っている。屋敷の跡は兎も角、後の二つは信用に値しない。