義高最期の地 清水八幡と影隠地蔵 

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北條政子が自らこの地まで来て義高を供養し祠を建てたと伝わるのが清水八幡。かつては玉垣を巡らした壮麗な朱塗りの建物で梨原御殿とも呼ばれていたが応永九年(1402)8月に起きた入間川の氾濫で流失し、後世になって見つかった石祠を現在の場所に再建したもの。祭神は清水冠者義高、5月の第3土曜日に例大祭が行われる。鎌倉街道が昭代橋と新富士見橋の中間付近にあった八丁の渡しから400mほど北西の奥州道交差点北側に影隠地蔵がある。元々は木造で、明治初期に石像に改められたと伝わる。討手に追われた義高はここに隠れてやり過ごそうとしたが見付かって斬られた。この地蔵尊も洪水や道路の拡張工事のため何度か移動している上に鎌倉時代初期まで遡るほど古い造りには見えない。義高を憐れんだ後世の人が建てたものだろう。鎌倉街道は真っ直ぐに信濃坂を登り、日高から坂戸・毛呂山を経て義高一行が目指した武蔵嵐山に向う。義高の祖父・帯刀先生義賢の本領だった大蔵や畠山重忠館のある菅谷へ。







     

        左:国道の歩道横にひっそりと清水八幡 大きな銀杏が目印
 
        中:
 
        右:義高一行が目指したであろう北西、鎌形の方向


     

        左:旧奥州街道と伝わる旧道の跡
 
        中:清水八幡から入間川を渡った北西に位置する影隠地蔵
 
        右: