文禄元年(1592年・秀吉全盛の頃)、この地を領有した森川金右衛門氏俊(後に徳川二代将軍秀忠に仕えた老中森川重俊の父)が比企尼山の北にあったと伝わる
大谷山壽昌寺を移設して扇谷山宗悟寺(
地図 を建立して自らの菩提寺とした。
比企能員 本領の館は宗悟寺(若狭局が持ち帰った頼家の位牌があるとか)の東側一帯
だったと伝わっており、城ヶ谷・寺沼・城ヶ谷沼などの地名が残っているが場所の特定には至っていない。
.
また5kmほど南の川島町金剛寺(
地図)も比企氏の館跡と伝わっている。こちらは水壕や空壕に囲まれているがほぼ平坦地で、郡司の本拠としては丘陵が点在する
比企郷の方が本物に見える。いずれにしても比企氏傍流の子孫は戦国時代にもこの地を本拠にし、主として松山城(百穴に隣接・
地図)の上田氏に仕えているから、
もし遺構があったとしても鎌倉時代とは無関係だろう。
.
伝承の続き。元久二年 (1205年・
頼家 死没の翌年) 7月のある日、
比企禅尼 と若狭局が奇比企沼 (串引沼の古名) を訪れた。想いを断ち切るよう禅尼に勧められた
若狭局は肌身離さず持っていた頼家の形見・鎌倉彫の櫛を沼に沈めた。かすかな水音と共に沈んでゆく櫛を見つめる二人...頼家命日の事だと伝わっている。
.
鎌倉彫は1180年代に渡来した南宋の工人・陳和卿が伝えたのが起源らしいから、話の筋は通っているのだけれど何となく架空の物語っぽい。そもそも亡夫形見の
櫛を沼に沈める必然性などある筈もない。「講釈師、見てきたような嘘を言い」の類じゃないのかな。
.
前述した通り頼家の嫡子一幡は「比企谷の館で焼死・或いはその後に刺殺」されているが、吾妻鏡は生母の若狭局(比企尼の甥で養子となった能員の娘)の生死には
直接触れていない。従って彼女が生き延びたのなら祖母の隠棲先に身を寄せた可能性はあるのだが、これは確認しようがない。