花の寺 桃源山松月院と、中伊豆冷川の清水山東向禅寺 

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松月院は寿永二年(1183)に銀秀が真言宗として開創、江戸時代初期の慶長十二年(1607)に宗銀が曹洞宗に改めた。当初の寺名は記録に残っていないし創建の経緯も
不明だが、 伊東祐親が自刃し平家が都落ちして頼朝の関東支配が確立した年の建立である。偶然として片付け訳にもいかない。
 
右:漁港上空から、伊東市街地の鳥瞰     画像をクリック→拡大表示
 
加えて祐親の庇護監督を受けた流人の頼朝 が祐親館から見て北に位置する「北の小御所」、つまり現在の伊東駅周辺に住んでいた事を考えれば、後に鎌倉に入り覇権を握った頼朝が承安元年(1170)に男子を産ませた 八重姫 とのラブ・アフェアを偲んで一宇を建立した、と考えても違和感はない。
 
実際に頼朝はデート場所だった 日暮神社 の前身である日暮山龍明寺(既に廃寺)に建久三年(1192)8月に永代祈願料として寺領53石を与えたとの伝承(資料なし)もあるし。僧 銀秀の素性が判れば話は簡単なのだが...
 
さて...寛文六年(1666)に松原村(伊東駅の南西一帯・標高16m前後)にあった当時の寺が大洪水のため流失、取り敢えず仮堂を建てて祀り、その後に再建のために勧進や喜捨を求めての活動があったらしい。。
 
宝永三年(1706)、中興の祖と伝わる鶴峰亀丹和尚が弁天沢高台と呼ぶ現在地(標高48m)に堂宇を再建して移転、中国の桃源の里にならって桃源山松月院と改めた。
 
更に貞享ニ年(1684)には夢に導かれた農夫が山裾の湯川天神畑弁天沢の松月田の竹薮から金の宝印と二寸 (約6cm) 弁財天像を見付け出し、亀丹が本堂横の弁天堂に
安置して祀った。弁財天は漁船の海上安全や大漁祈願・縁結び・芸能の上達・蓄財金運・無病息災に霊験のある七福神の一つである。

右:松月院と天神畑、小御所の跡か?     画像をクリック→拡大表示
 
※宗銀: 松月院を改宗する11年前の慶長元年(1596)には八重姫所縁の真言宗西成寺を曹洞宗最誓寺に改宗させている。
寿永二年に開山和尚を務めたとされる銀秀の詳細は判らない。
 
※大洪水: 旧松月院の堂宇が流失したのは寛文十一年(1671)9月29日(旧暦)に勃発した「亥の満水」とする説もある。
これが松川の氾濫なのか、あるいは大津波なのかは判断できない。
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※天神畑弁天沢: 弁天沢は松月院裏山から寺の南を経て暗渠となり駅の下を抜けて海へ入る現在の弁天川。天神畑は伊東駅北西の
伊東公園の平地(標高15m)から線路の一帯、現在も土砂災害警戒地域に指定されている急傾斜地だ。
 
【 弁天堂には概略次のような出世物語が伝わっている 】
 
元禄十七年(1703)前後に中伊豆冷川の東向寺檀家の娘お光(おこう)が御殿勤めをしたいと考えて当院の弁財天に願を懸けた。 片道四里を通ってお百度を踏み、願が成就して伊勢国津藩主藤堂高久の側室に迎えられた。後に四代高睦を産んだ冷川御前である。
 
【 弁天堂の話を補完する中伊豆冷川の記録 】
 
お光の父親は平井信友、伊東の鎌田(南伊東駅の付近)に住んでいた武士。お光が熱海の豪家(宿屋とも)で女中奉公をしていた折に、江戸から湯治に来ていた藤堂高次
が川辺で洗濯をしていたお光をからかったところ(尻でも触ったか?)逆に水を浴びせられた。近習は手討ちにすると息巻いたが、高次はお光の勇気と貞淑さを評価して
側室に迎えた。高次51歳、後に冷川御前となったお光(佐久、松とも)は25歳前後だったと伝わる。
 
お光は男女一人づつを産み、姉の糸は真宗高田派総本山専修寺(公式サイト)十六世堯円上人の室となり、弟の高睦は藤堂家四代目を継いでいる。
ちなみに高次の針医として仕えたお光の弟・平井友益の子孫が江戸川乱歩(wiki・本名は平井太郎)。
 
※東向寺: 冷川ICの南にあり、本堂は東に向いている。お光の両親と兄夫婦の墓(北東の福音寺(明治初年に廃寺)から移設)がある。
※平井信友: 冷川の杉本善兵衛の養子になり、お光の出仕の際に平井姓に復している。男女各3人の子があり、お光は二番目で長女だった。
 
【蛇足...同郷の女性・お万の方について】  面倒なので真偽は調べていないけど...。
 
20歳で徳川家康の側室として仕え、家康が60歳の時に長福丸(紀州家の祖・頼宣)を、翌年には鶴千代(水戸家の祖・頼房)を産んだお万の方も 天正八年(1580)
に冷川で生まれている。お光も彼女の出世に刺激されて都会を夢見たのか、それとも魅力のある女性が多い土地柄だったのか(笑)。
 
   2011年2月、冷川古道の頼朝石 を撮影する際に東向寺を訪問した (4段下から) 。「鎌倉時代を歩く」のテーマとは無関係だが素通りする訳にもいかない。


     

           左: 松月院の標高は51m。当初の位置と伝わる松原地区や伊東駅は海抜12m前後、松川の水面より数m高いので流失とは考えにくい。
むしろ天神沢の土石流か山崩れの被害を受け、その際に埋没した仏像と金印が後に掘り出されたと考える方が理屈に合いそうだ。
 
           中: 伊東駅からの距離は500m、高台にあって眺望が良く四季の花も楽しめる。伊東生れの木下杢太郎 (wiki) の生家・太田家菩提寺でもある。
木下杢太郎(1885〜1945)は医者・詩人・作家・画家として多くの実績を残した。松川の散歩道や記念館(観光協会サイト)も近い。
 
           右: 桃源山松月院の本堂。本尊は釈迦牟尼仏で、伊東七福神(本来が観光用の設定)の一つ弁財天を祀る堂はすぐ左手にある。


     

           左: 弁天堂は松月院の本堂に比べると(流石に掘り出された弁財天を祀った貞享ニ年(1684)まで遡るのは無理だが)建築年代は古い。
 
           中: 拡大版画像の右隅には祀ってある弁財天像(かなり不鮮明)を貼り付けてあるがこれは飾り物で、本物は別に収蔵してあるらしい。
 
           右: 庭園の隅からは伊東の海が一望できる。沖に見えるのは平成元年(1989)の海底火山噴火で出来た手石島(正式には手石海丘)。
残念ながら伊豆大島は右に見える岬の裏側に位置するため視界から外れている。


     

           左: すぐ近くまで民家やホテルが迫っており、伊東の町並みは少ししか見えない。中央の四角い建物は伝・祐親館の物見台があった市役所。
 
           中: やや禅寺らしくない雰囲気はあるが庭園は良く手入れされ、いつ訪れても展望と季節の花がそれなりに楽しめる。
 
           右: 早春には早咲きの桜と梅が同時に見られる光景も。少し古い画像なので来年は撮影し直して複数枚をアップしようと思う。

以下、中伊豆 冷川の清水山東向禅寺周辺の訪問記録を添付。

 
     

           左: 伊東から山を越えた中伊豆冷川、お光の実家の菩提寺・清水山東向禅寺。曹洞宗で創建は寛永九年(1632)、本尊は薬師如来、地図は こちら
西側を伊豆スカイラインが通っている。終点の天城高原ICまで9km。
 
           中: 元々は泰元阿闍梨による天元二年(979)の開創による。その後は荒廃し、寛永九年に最勝院十三世の崇銀昌大和尚が再建した。
詳細は調べていないが崇銀昌大和尚は十六世との文献もあり、紀伊和歌山の各地でも開山を務めている、らしい。
 
           右: お光(冷川御前)の両親・平井信友夫妻と嫡子(兄)夫婦の墓が残っている。子孫の供養が続いている感じではないが...。


     

           左: 境内から北東方向を。背景は宇佐美と中伊豆を隔てる山並み、大東小学校の右側が冷川峠、画面の右手を登ると中伊豆バイパスに突き当たる。
 
           中: 東向寺の境内から200mほど農地を歩くと来宮神社の鳥居に至る。社殿との間を伊豆スカイラインが走り、参道が分断されている。
 
           右: 鳥居南側が元々の菩提寺だった福音寺の跡。明治初年の神仏判然令に伴って廃寺となり、墓石などは東向寺に移されている。
農地の中には痕跡っぽい石が数個点在しているが詳細は不明、既に150年が経過し歴史のかなたへ没し去りつつある。


     

           左: 徳永川に沿った集落から来宮神社本殿に向う参道と鳥居。石段の上が伊豆スカイライン、左手の石垣上に見える白い屋根が神社。
 
           中: 石段の上を走る伊豆スカイライン、冷川ICの300m天城高原IC側(南)から撮影。参拝には道路沿いに100mほど歩く必要がある。
 
           右: 石段の上から天城高原ICの方向を。走り去る車の右側辺りが社殿の登り口になる。昔は竹林の右側に参道が延びていたのだろう。