※宗銀: 松月院を改宗する11年前の慶長元年(1596)には八重姫所縁の真言宗西成寺を曹洞宗最誓寺に改宗させている。
寿永二年に開山和尚を務めたとされる銀秀の詳細は判らない。
※大洪水: 旧松月院の堂宇が流失したのは寛文十一年(1671)9月29日(旧暦)に勃発した「亥の満水」とする説もある。
これが松川の氾濫なのか、あるいは大津波なのかは判断できない。
.
※天神畑弁天沢: 弁天沢は松月院裏山から寺の南を経て暗渠となり駅の下を抜けて海へ入る現在の弁天川。天神畑は伊東駅北西の
伊東公園の平地(標高15m)から線路の一帯、現在も土砂災害警戒地域に指定されている急傾斜地だ。
【 弁天堂には概略次のような出世物語が伝わっている 】
元禄十七年(1703)前後に中伊豆冷川の東向寺※檀家の娘お光(おこう)が御殿勤めをしたいと考えて当院の弁財天に願を懸けた。
片道四里を通ってお百度を踏み、願が成就して伊勢国津藩主藤堂高久の側室に迎えられた。後に四代高睦を産んだ冷川御前である。
【 弁天堂の話を補完する中伊豆冷川の記録 】
お光の父親は平井信友
※、伊東の鎌田(南伊東駅の付近)に住んでいた武士。お光が熱海の豪家(宿屋とも)で女中奉公をしていた折に、江戸から湯治に来ていた藤堂高次
が川辺で洗濯をしていたお光をからかったところ(尻でも触ったか?)逆に水を浴びせられた。近習は手討ちにすると息巻いたが、高次はお光の勇気と貞淑さを評価して
側室に迎えた。高次51歳、後に冷川御前となったお光(佐久、松とも)は25歳前後だったと伝わる。
お光は男女一人づつを産み、姉の糸は真宗高田派総本山
専修寺(公式サイト)十六世堯円上人の室となり、弟の高睦は藤堂家四代目を継いでいる。
ちなみに高次の針医として仕えたお光の弟・平井友益の子孫が
江戸川乱歩(wiki・本名は平井太郎)。
※東向寺: 冷川ICの南にあり、本堂は東に向いている。お光の両親と兄夫婦の墓(北東の福音寺(明治初年に廃寺)から移設)がある。
※平井信友: 冷川の杉本善兵衛の養子になり、お光の出仕の際に平井姓に復している。男女各3人の子があり、お光は二番目で長女だった。
【蛇足...同郷の女性・お万の方について】 面倒なので真偽は調べていないけど...。
20歳で徳川家康の側室として仕え、家康が60歳の時に長福丸(紀州家の祖・頼宣)を、翌年には鶴千代(水戸家の祖・頼房)を産んだお万の方も
天正八年(1580)
に冷川で生まれている。お光も彼女の出世に刺激されて都会を夢見たのか、それとも魅力のある女性が多い土地柄だったのか(笑)。
2011年2月、
冷川古道の頼朝石 を撮影する際に東向寺を訪問した (4段下から) 。「鎌倉時代を歩く」のテーマとは無関係だが素通りする訳にもいかない。