範頼の所領だった吉見の息障院 

 
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頼朝 の異母弟で悲運の最期を遂げた 源範頼 の館跡と伝わる息障院は天平年間(730年前後)に 行基 が開いた、あるいは大同年間(806年前後)の 坂上田村麻呂 による
開創と伝わっている。いずれの説にしろ武蔵国では屈指の古刹で、かつては吉見護摩堂と呼ばれていたらしい。
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密教だけの修法である「護摩」は天台宗と真言宗で行われるのが主だから、法相宗の行基が開いた寺あるいは東征の際に立ち寄った坂上田村麻呂が開いた寺が約100年後の
空海(弘法大師)からの間接的な教化を経て真言宗に帰依した可能性はある。
西暦940年前後の東国で勃発した天慶の乱では 平将門 を調伏する護摩を焚き、その功績によって息障院の
称号を下賜されたという。

右:息障院光明寺本尊 不動明王坐像    拡大表示なし
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現在は真言宗智山派に属し正式には岩殿山息障院光明寺、本尊は定朝の様式を伝える作品と評価される高さ82cmの結跏(足を結ぶ形)不動明王坐像(作者は不明)で、右手には力を使ってでも佛の教えに従わせるための剣・左手に羂索(けんさく・衆生を救い上げる綱)を持つ。定朝は平安時代後期を代表する京の大仏師であり、息子と弟子からは院派と円派、そして東国造像の主流となって活躍した慶派の仏師が興隆する。
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息障院から約400m北にある横見神社付近、あるいは更に八丁湖公園北側の御所堀(小字名)付近が範頼の館跡とする伝承もあるが詳細は不明。息障院に併設する幼稚園を含むと150m四方ほどの敷地を囲む濠の跡は鎌倉時代ではなく、南北朝時代以降の防御施設と推定されている。
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更に9kmほど南東の北本市石戸堀の内を館跡とする伝承もあり、範頼が挿した杖が根付いた「蒲桜」の根元には墓石と伝わる古い石塔もある(近日訪問予定)。要するに、範頼館の跡は確定していないという事になるのだろう。かつての息障院は1km北西の岩殿山安楽寺(吉見観音)の山裾で、南北朝時代の明徳年間(1390〜1394)に現在地に移転したらしい。周辺地図鳥瞰図 も参考に。
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粛清された範頼の子は殺されず、二男の範圓と三男の源昭(僧籍か)が比企尼から吉見庄を譲られ、範圓の嫡子為頼が吉見姓を名乗り御家人として存続した。範頼の正妻は 安達盛長丹後内侍(比企尼の娘)の間に産まれた娘で、つまり範圓と源昭の外曾祖母に当るのが 比企尼である。
吉見一族は範圓−為頼−義春−義世と続いた時に謀反の嫌疑で討伐を受け、生き残った庶流が山陰地方に移り戦国時代以降は毛利氏に仕えている。


     

          左: 参道の前が中学校・右が息障院の運営する幼稚園・左が運動広場、周辺道路も狭いが樹木に囲まれた参道は古刹の雰囲気が満ちている。
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          中: 道路から60mで簡素な山門に至る。南面に空濠と他の三方に水路が巡らされ、改修の跡はあるが吉見氏館として使われた頃を思わせる。
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          右: 手入れの行き届いた境内を本堂へ。500mほど西から吉見の丘陵地が始まるため、伝承の通り範頼館はその付近と考えるべきか。

この頁は2022年 8月 15日に更新しました。