頼朝が帰路に落馬事故を起こした橋供養の跡か? 相模川の橋脚史跡 

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右:小さな公園として整備された相模川橋脚遺跡      画像をクリック→拡大表示
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稲毛重成 は秩父平氏の一族で 小山田有重 (畠山重能 の弟) の子。畠山重忠河越重頼江戸重長 らの従兄弟に当る。当初は平家に属したが 頼朝 が隅田河を渡って武蔵国に入る時に帰服し、以後は御家人として仕えた。
母は宇都宮宗綱の娘、叔母が頼朝の乳母の一人だった関係もあって、政子の異母妹(北條時政 娘)を妻に迎え稲毛荘を本領とし、枡形城・現在の生田緑地(地図)に本拠を置いた。枡形山の北麓にある真言宗の広福寺が館跡と伝わり、本堂には重成の坐像、観音堂の裏手には重成夫妻の五輪塔が残っている。
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  ※稲毛荘: 現在の川崎市高津区〜中原区にあった広大な荘園。当初は摂関家の所有、後に藤原北家嫡流 忠通の三男 九条兼実
所有に変わっている。
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重成は頼朝二度目の上洛に同行。帰り道の美濃国で妻の病状悪化の連絡を受け、馬を飛ばして駆け付けた甲斐もなく三日後に妻は死没した。この年の12月で吾妻鏡の記述は途切れ、建久十年(1199年4月27日に改元して正治元年)2月4日まで37ヶ月が空白となる。当然ながら相模河の橋供養の記録もないし、頼朝死没について直接の記載もない。13年後の建暦二年になって、頼朝の死亡を間接的な表現で「橋供養の帰路に落馬事故」と書いている。原文は「將軍家渡御。及還路有御落馬。不經幾程薨給畢。」
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ここで留意が必要なのは、頼朝の遺言について、そして後継者について、の二点である。
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歴史家の誰もが見逃しているのだが、頼朝の遺書または遺言は存在した。吾妻鏡の正治元年 (1199) 10月25日を読み解いてみよう。梶原景時排斥の契機となった 結城朝光 の述懐である。「吾聞忠臣不事二君殊家幕下厚恩也遷化刻有遺言之間不令出家遁世之條後悔非一」 中心は二君に仕えずと言う。大きな恩を蒙った幕下 (頼朝) が遺言された「出家遁世は許さない」との言葉に従った事が悔やまれる、と。つまり、落馬した12月27日から逝去した1月13日までの17日間、遺言を残すだけの意識はあった事になる。
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「私が死んでも出家遁世しちゃダメだよ」と言える余裕があったのなら、もっと別の指示を残せた筈だ。幕政のこと、後継者のことに触れない筈はない。普通なら「頼家に忠節を尽くし源氏の世を守り隆盛させよ」と言うだろうし、初孫でまだ満一歳にもならない摘孫 一幡についても「後継者として大切に守り育てよ」と言い遺すだろう。
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でも、建久七年 (1196)〜 建久十年 (1199) の1月末までの吾妻鏡は逸失している。もっと判りやすく書けば、比企能員 の娘 若狭局が頼家の胤を宿してから頼朝が死ぬまでの吾妻鏡が失われ」、頼朝が言い遺した言葉は「私が死んでも出家遁世しちゃダメだよ」だけなんて、絶対にあり得ない。とすると...
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頼朝の摘孫誕生に関する部分を隠し、遺言の主要部分を隠し、御家人には「単純な遺言だけ伝える」事ができたのは誰だ?という話になる。

相模川橋脚遺跡図面
左:橋脚遺跡の発掘調査 図面      画像をクリック→拡大表示
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【吾妻鏡 建久六年(1195) 6月28日】
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頼朝は美濃国青波賀に到着、美濃国守護の相模守 大内惟義新羅義光 の孫 平賀義信の長男で大内姓を名乗った寵臣)の饗応を受けた。飛脚が到着し、稲毛重成 の妻 (北條時政の娘)が武蔵国で重篤と報告、重成は直ちに駆け付けようとした。頼朝は黒毛の駿馬一匹を与え、重成はこれに跨って鞭を挙げた。
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【吾妻鏡 建久六年(1195) 7月1日】
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今日、重成が武蔵国に着いた。頼朝恩賜の馬は龍のように翔り僅か3日で着いたので三日黒と名づけた。
(参考・・青波賀〜稲毛館の距離は約400km)
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【吾妻鏡 建久六年(1195) 7月3日】
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病に伏せていた稲毛重成の妻が治療の甲斐もなく武蔵国で他界した。心の強い重成も愁いに耐えられず直ちに出家した。
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【吾妻鏡 建暦二年(1212) 2月28日】
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相模国相模河に架る橋の数ヶ所が腐り壊れたと報告があった。修理を必要とする旨が 三浦義村 から出され、義時廣元 が協議。
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去る建久九年(1198)に稲毛重成 が橋の新設工事を完成させた折、落成供養に将軍が来臨した帰路に落馬事故があり程なくして崩御。またその後には(供養の主催者)稲毛重成も事情があって討伐を受ける結果になった。
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橋に関して凶事が続いた経緯のため将軍(実朝)に判断を求めたところ「故頼朝将軍の死は覇権を得て20年が過ぎ官位を極めた後であり、重成は自分の不義のため天誅を受けたに過ぎない。橋の問題ではないのだから今後は一切不吉などと言うべきでない。あの橋があれば二所詣にとっても庶民にとっても便利である。壊れる前に早く修理をせよ。」との仰せだった。
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南北朝時代の1356年前後に編纂の歴史書・保暦間記(保元から暦応まで、の意味)では吾妻鏡の記述を更に脚色して「八的ヶ原(現在の藤沢市辻堂)で義経の亡霊を、稲村ヶ崎で安徳天皇の亡霊を見て落馬。これが原因で病没した。」と書いている。これを根拠にして辻堂の八松地区(八的ヶ原→八松ヶ原→八松と転訛)の郷土史家たちが「頼朝落馬の地」を主張している。
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  ※重成の不義: もちろん不倫(笑)ではなく、元久二年(1205)6月の 畠山重忠 追討事件を差す。詳細は別項で述べるが、重忠一族は謀反の冤罪で滅亡し、討伐軍に
加わった稲毛重成父子と弟の 榛谷重朝 父子(本領は二俣川)は「無実の畠山を陥れた罪」で殺された。
全ては 北條時政義時政子 の計画的な御家人粛清計画の一環で、この後は武蔵国の実質的所有権は秩父平氏系から北條一門に移っている。


     

           左: 大正十二年(1923)、地盤の液状化に伴って水田の中に出現した直後の画像。南西の小出川下流に向って撮影したらしい。
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           中: 同じ位置から、出現した2年後の大正十四年5月。この頃に神奈川県が文化財に仮指定、翌年10月に国の史跡に指定された。
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           右: 当時の発掘・整備工事のスナップ。現在までの調査範囲と、上記した 遺構の図面を参考に。


     

           上: 現在見られる水面上の橋脚杭は全て樹脂製のレプリカで、発掘調査の済んだ丸太類や護岸材は全て地中に埋めて劣化を防いでいる。
池の周辺は小公園として整備されベンチなども置いてあるから、鶴峯神社など近郊の散策ルートに組み込むのも面白い。


     

           左&中: 残っていた杭丸太(橋脚)の長さは先端の尖った部分まで365cmだが、これは横桁の杭を繋ぐホゾ穴から上が腐って欠損している
ためで、建設当時はホゾ穴から上に1〜2m程度は長かったと推測されている。
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           右: 橋杭上端(遺構図面の#10を参照)、橋の巾方向に桁を通して横の杭と連結させていた加工の痕跡(現物が出土した状態の写真)。

この頁は2022年 8月 12日に更新しました。