岡部忠澄の本領と平忠度の墓 

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平忠度(天養元年・1144〜元暦元年・1184、享年41歳)は平忠盛の六男で清盛・教盛・経盛の弟、官位は正四位下薩摩守。富士川合戦では 頼朝軍と対峙して敗れ、倶利伽羅峠の合戦(共にサイト内リンク・別窓)では木曽義仲軍に惨敗した。歌人としても知られ、千載和歌集には詠み人知らずとして一首が載っている。
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【平家物語 「忠度都落ち」の段】
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一門と共に都を離れた薩摩守忠度は五騎の武者と僕童一人を連れて都大路に戻ってきた。五条にある三位藤原俊成の屋敷を訪れたのだが、治安の乱れを恐れて門は固く閉ざされており、大声で名乗っても「落人が戻ってきた」と騒ぐばかりである。忠度は下馬して「三位殿に話したい事があります、聞いて頂きたい」と大声を出すと俊成は「その方ならば支障はない」と門を開かせて邸内に招き入れた。
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忠度は「安徳帝は既に都を離れ、平家の命運も尽きたようです。勅撰和歌集の選があると聞いておりましたが、戦乱のため沙汰がなくなったのは悲しい事です。平和な世になり再び勅撰の沙汰があれば一首なりと選んで頂き、来世からご恩に報いたいと思います。」と百余首の秀歌を書いた巻物を鎧から取り出した。俊成は「形見として大切に扱います。この荒んだ世にあって風情のある志には涙が出る思いがします。」として受け取った。忠度は「西海の底に沈もうと山野に屍を晒そうと、思い残すことはありません。」と言い残して一門の後を追った。
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戦乱が静まると、忠度の思ったとおりに後白河法皇から千載集勅撰の命令が出された。巻物の中には優れた和歌が多く、俊成は何首も選びたかったのだが勅勘を受けた忠度である事を思えばそうもいかず、「故郷の花」と題した一首を載せた。これが千載和歌集(wiki)にある「詠み人知らず」の歌である。
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          さざなみや 志賀の都は あれにしを 昔ながらの 山桜かな
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岡部忠澄と猪俣範綱の慰霊墓が葉山の上山口に残っているのが面白い。一ノ谷合戦で岡部忠澄は平忠度を・猪俣範綱は平盛俊を討ち取る手柄を立てたのだが、二人とも少々卑劣な戦いをしたらしい。範綱は忠澄の本家筋に当る同族の武士集団・猪俣党(武蔵七党の一つ)の当主である。
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平家物語に拠れば...忠澄は忠度に一騎打ちを挑んだがすぐに組み伏せられ首を掻かれそうになった。付き従っていた郎党が駆け寄って後から忠度の右腕を切り落とした。死を覚悟した忠度が「念仏を唱えるから待ってくれ」と座り直し祈り始めたところを後から首を斬り落とした、とされる。
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猪俣範綱も同様に、剛勇で知られた侍大将の平盛俊に一騎打ちを挑んで組み伏せられ、首を斬られようとした時に「命を助けてくれたら頼朝に推挙する」と提案した。「侮辱するか」と怒って太刀を振りかぶった盛俊に「命乞いをする者を討つのか」と言い、手を緩めた隙に部下と共に斬り殺した、と。まぁここまでなら軍記物に良くある話なのだが、三浦半島には更にこの話の続きが伝承として語り継がれている。蛇足と言えば蛇足だけど、面白いのも間違いない。
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鎌倉に凱旋した二人は平家の名だたる武将を討ち取って恩賞を受けたにも拘らず、フェアな戦いをしなかった後悔が先に立って故郷にも帰れなかった。悩んだ末に共に戦った三浦義澄を訪ねるため建久三年(1192)11月に葉山上山口の入生田まで来て、二人とも近くを流れる下山川で投身自殺を遂げた。村人は武具と共に鄭重に二人を埋葬、現在も毎年11月3日には墓前祭が行われている。興味があれば、地図はこちら
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壇ノ浦合戦から7年も(一ノ谷合戦からなら8年だ)過ぎて自殺するのも妙な話で...猪俣範綱の没年は確かに建久三年だけれども、岡部忠澄の没年は建久八年(1197)だから伝承の信頼性は乏しい。卑怯の振る舞いは兎も角、忠澄は恩賞として五ヶ所の荘園を与えられ伊勢国地頭に着任した、深谷市ではトップクラスの偉大な先人である。源平合戦後も奥州合戦などに転戦、建久元年(1190)の頼朝上洛には隋兵333人の中に岡部六野太(六弥太)も名を連ねている。


     

        左: 平忠度の供養墓がある深谷市萱場の石流山清心寺 (地図)。忠澄は所領で最も景色の良い岡部原に遺髪を納め五輪塔を建てた。
慶安二年(1649)に岡部原から石流山清心寺(浄土宗)に遷した、と伝わる。あるいは、五輪塔のあった場所に清心寺が建った、のかも。
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        中: 左手の築地塀の一角が忠度の墓所。他にも4月中旬に花を開く忠度桜や忠度の腕塚、千姫供養塔、江戸時代の板碑などがある。
清心寺は天文十八年(1549)に深谷上杉氏憲盛の家臣で深谷三宿老の一人・岡谷清英が建立した浄土宗の寺で開山和尚は萬誉玄仙。
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        右: 忠度の首は六条河原に晒された。遺髪は武蔵国に、腕と胴は一ノ谷合戦があった神戸市のそれぞれ二ヶ所に別れて眠っている。
山陽電鉄・人丸前駅(神戸市長田区)近くに忠度の腕を葬った腕塚神社(地図)、更に200m南の裁判所北東に忠度塚(胴塚?)(地図)、他に
長田区駒ヶ林4−5の保育園前に腕塚(地図) 、更に200m西に胴塚(地図)がある。肝心の首は六条河原からどこへ葬られたのか判らない。


     

        左: 岡部館跡と伝わる玉龍山普済寺(曹洞宗)。忠澄手植えの樹齢800年の榧(かや)の木や、周辺には土塁なども点在する。 (地図)
新編武蔵風土記稿(文化・文政年間(1804〜1829年)編纂の地誌)に拠れば、晩年の岡部六弥太忠澄は館の敷地に普済寺を建立したとの
寺伝を記載している。本尊は岡部忠澄が自ら彫った十一面観音像、他に忠澄夫妻の木像と位牌を収蔵している。
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        中: 本堂の棟には岡部氏の家紋「丸に跳ね十字」(使われ始めた時代は不明)が見える。開山和尚は栄朝禅師、臨済宗の開祖栄西に師事し、
武蔵国から上野国で広く布教に尽力した禅僧で、安中の蓮華寺(木像あり)や新田の長楽寺などを開いている。
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        右: 北東にある菅原神社(画像右の林)から普済寺までの約400m四方の範囲が岡部氏の館跡で、周辺には土塁や壕の跡が点在している。


     

        左: 普済寺西側の民家敷地に土塁の跡、普済寺と菅原神社(画像左の林)の中間には物見台の様な土塁の上に稲荷神社(画像右隅)がある。
普済寺の一帯は北に向って少し傾斜する平坦地で防御施設の機能は乏しい。館を囲んでいた土塁の遺構だろうか。
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        中: 普済寺の北200mにある岡部一族の墓所。岡部氏は小野妹子の子孫を名乗り、忠澄の祖父・忠綱(猪俣党の猪俣忠兼)が武蔵国榛沢郡
岡部郷(現在の深谷市岡部)を領有して岡部氏を名乗ったのが最初。ちなみに、静岡県の岡部とは無関係。
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        右: 中央の大きな五輪塔(香台の前)が忠澄、その右側が父の行忠、左が正妻玉の井(伝・畠山重忠の妹)の墓と伝わっている。


     

          上: 廟所のスナップ。墓石はいずれも平安末期から鎌倉中期と推定される様式の五輪塔で、風化による破損が激しい。


        

        左: 廟所に並ぶ五輪塔群を右側から撮影。
        中: 左側、正室・玉の井(伝・畠山重忠妹)の墓と伝わっている五輪塔。
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        中: 廟所の中央に置かれている五輪塔(約180cm)が忠澄の墓。昔から墓石の粉を煎じて飲むと子供のいない女性は妊娠できる、或いは
赤子のいる女性は乳の出が良くなるとの伝承があるため部分的に削られて変形している。
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        右: 忠澄の右側が父行忠の五輪塔と伝わる。武蔵七党の一つ・猪俣党の猪俣忠兼が岡部を領有し、子の行忠が継承した。