幕府を支えた京下りの官僚 大江(中原)廣元の墓 

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右:大倉御所の裏山 頼朝・廣本・義時の墓所が並ぶ  画像をクリック→拡大表示
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大江廣元 は初期の鎌倉幕府を政策面で支えた数少ない文官の一人で、出自(実父が誰か)には諸説がある。
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後白河法皇 の近臣・藤原光能か、史学の大家・大江維光か、法令と儒学の家系・中原広季 (藤原光能の子親能を養子にした) かは明らかではない。養父が中原広季なのは概ね確実で、早くから 頼朝 に仕えた同じ養子の 中原親能 の縁で寿永三年(1184)に鎌倉に入り、頼朝に重用されて公文所別当(後の政所、訴訟や経理を司る組織)に就任した。
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源平合戦を通じて親能と共に朝廷との折衝や在京した 義経 の補佐などを担当し、幕府の樹立後も実務に長けた官僚として活躍、特に 頼朝に進言して義経捜索を名目にした守護・地頭を置いた功績は大きい。頼朝の没後は 頼家 を補佐する重臣十三人合議制に(親能と共に)加わって北條氏の権限強化にも全面協力、承久の乱(1221)では 政子 と共に朝廷との決戦を主張し、幕政の安定に大きく貢献した。
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建保四年(1216)には陸奥守となり、同年にはそれまで使っていた中原姓を大江に戻した。嘉禄元年(1225)6月10日に死没、同年7月11日には北條政子・前年の6月13日には 北條義時 が没しているから、初期の北條政権(鎌倉幕府)を支えた英傑三人が相次いで世を去ったことになる。
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四男の季光は廣元所領の毛利荘(神奈川県厚木市)を継承したが、宝治合戦(三浦の乱・1247年)で三浦側に味方して一族の大部分が殺され、家勢は著しく衰退した。生き残った子孫は後の戦国大名毛利氏・海東氏・酒井氏・長井氏・越後北条(きたじょう)氏・寒河江氏の血筋に繋がった、とされている。


     

           左: 鳥居横の石段上が墓所。頼朝墓(別窓)裏の細道経由でも、白旗神社を右に曲がった小道でも行かれる。石段下の平場は 義時法華堂(別窓) が
あった場所(数年前に発掘調査完了)で、鳥居の左が宝治合戦に敗れ頼朝法華堂で自刃した三浦一族を葬ったと伝わる三浦やぐら(別窓)。
観光客も殆ど来ない寂寞とした場所なので特に女性の単独行は要注意、少し右の山中には「伝・義時のやぐら」がある。
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           中: 左から、毛利季光(毛利家の祖)・大江廣元・島津忠久(島津家の祖)の廟が並んでいる。いずれも古い「やぐら」を利用して改築したもの。
島津家は頼朝の子孫(安達盛長 の室 丹後内侍 が京で産んだ頼朝の落胤が先祖)である、と根拠の乏しい主張をしている経緯による。
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           右: 墓所奥の五輪塔は江戸時代中期以降の造立。大江廣元 の末裔・毛利元就の子孫にあたる長州藩(萩藩)が整備した廟所である。


     

           左: 向って左は 毛利季光 廟。廣元の四男で、毛利庄(旧・森庄、厚木市西部)を相続した。季光は宝治合戦では妻(三浦義村の娘)に「義兄を裏切る
のは武士の行為に非ず」と説得され、息子四人と共に三浦に味方して法華堂で自刃、毛利氏はほぼ全滅する結果となった。
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越後の所領にいて乱に加わらなかった季光の四男経光が毛利氏の継承を認められ、所領の一部・安芸国吉田荘を相続した経光の四男時親の子孫から
毛利元就が、越後の佐橋荘南条を相続した嫡男基親の子孫から安田氏と北条(きたじょう)氏が出ている。
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           中: 大江廣元 廟。頼朝に招かれ寿永三年(1184)に鎌倉入りした後の41年間を政務の中枢に携わった実務官僚。北條氏のブレーンでもあった。
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           右: 嶋津忠久 廟。父は公家の惟宗広言または広言の庶子忠康、母は 丹後内侍 (その父は比企掃部允(遠宗)、母は頼朝の乳母となった 比企尼)。
頼朝に重用されて大隅国と薩摩国(鹿児島県全域)を領有し、荘園名の島津(嶋津)を名乗った。
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頼朝と丹後内侍が幼少から姉妹のように育った経緯から、彼女が 安達籘九郎盛長 に嫁して産んだ 景盛 に頼朝落胤の風評(初出は鎌倉時代の
中期に成立した保暦間記)が生まれ、盛長曾孫の宗景が「頼朝の子孫だから源を名乗る」と言い出して「謀反の意図あり」との過剰な反発を招き、
弘安八年(1285)の霜月騒動で安達一族が滅亡する引き金になった。
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島津氏の場合は、丹後内侍 が最初の結婚で産んだ忠久が実は頼朝の子なのだという主張で、これが頼朝の墓の近くに忠久廟を建てる根拠と
なった。まぁ徳川氏が家康の先祖は新田源氏だと主張してる程だから、誰が何を言おうが勝手だけどね。


     

           左: 廣元邸は大倉山の廟所から1.6km東の金沢街道、現在は 明王院(公式サイト)が建つ胡桃山の麓にあった。滑川左岸(南岸)住宅地の一角
には鎌倉青年団建立による碑(地図)が建っている。明王院の一帯は 梶原景時の別邸(別窓)があった地で、景時一族が駿河で追討された
正治二年(1200)に屋敷が破却され、嘉禎元年(1235)に四代将軍 藤原頼経 の祈願所として明王院が開かれている。
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           中: 大江廣元 邸址の石碑。銘文は以下の通り。
大江氏 奕世学匠として顕る 嘗て匡房 兵法を以て義家に授く 広元は其の匡房の曽孫なり 頼朝に招かれて鎌倉に来り 常に帷握に持し機密に
参画す 幕府創定の功 広元の力与りて多きに居り 相模毛利荘を食む子孫依りて毛利を氏とす 而して因縁奇しくも此の幕府創業の元勲が
七百年後の末裔は 王政復古に倡首たり 此の地即ち其の毛利の鼻祖 大膳大夫の邸址なり
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           右: 廣元の墓は大倉山ではなく明王院から天園ハイキングコースに登る山道の層塔(地図 が本物とも。江戸時代に墓の所在を探しに来た毛利家家臣の
態度が傲慢だったため気分を害した村人が墓石の位置を教えず、結局は大倉山に造らざるを得なかった、との伝承がある。

この頁は2022年 8月 26日に更新しました。