音止めの滝から狩宿へ続く曽我兄弟の足跡 

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【 曽我物語 巻四 「箱王、曽我へ下りし事」】
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年月が過ぎて箱王は17歳になった。ある日別当が箱王を呼び、「上洛して受戒する時期なので垂髪のままではいけない、髪を下ろして行くべきだろう」と語った。
箱王は内心は別にあるのだが「仰る通りに」と答え、別当は触れを出して出家の準備を整え、その旨を母にも知らせた。しかし箱王は出家前夜に箱根を抜け出して
曽我の里に下った。乳母の家に入って兄の祐成を呼び出し色々と話し合い悩んだ結果、母や箱根権現別当の心には沿わないが、工藤祐経 への怨みは忘れられないと
して、夜明けに曽我を出て二騎で北條を目差した。
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そして 北條時政 の援助を受けて元服し、五郎時致を名乗る (北條四郎時政が烏帽子親だから五郎時致)。兄弟の父 河津三郎祐泰 の姉が時政の先妻 (宗時と政子の生母。政子の生母
は確認できず) だから比較的近い縁戚に当る。相模には祖父 伊東祐親 の係累も多く、兄弟の血縁関係は網の目のように交差している。
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相模中村氏と伊豆伊東氏の縁戚関係略図は こちら、ただし曾我兄弟の生母満江 (万劫) の出自には二通りの説(狩野親光 の娘説と 中村宗平 の娘説)がある。中村宗平の娘と仮定
すると、三郎祐泰と婚姻する前に産んだ満江の娘(夫の死没後=花月尼)が嫁した中村宗平の孫 (二宮友忠、朝忠) と曽我兄弟は従兄妹だから縁戚関係はどちらでも同じなのだが、
このサイトでは比較的筋の通っている「狩野親光の愛娘」説を採用している。二宮氏の系図を参照。
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一旦は曽我に戻った箱王が出家を拒否し勝手に元服して時致を名乗ったため母の勘当を受け、三浦や二宮や土肥などの親戚と曽我の祐成宅などを転々とした。.
暇を見つけながら曽我物語(仮名の流布本)の現代語変換に取り組んでいる。かなり冗長なので故事来歴を引用した部分などは割愛しているが、いつ完成するかは全く判らない。
真名本(漢文)をベースに出来たら素晴らしいのだが夢のまた夢、不勉強の祟りだ (涙)。


     

           左: 最近は人気が落ち目で観光客の減少が顕著な白糸の滝は日本の滝百選の一つで国の天然記念物。川水の滝ではなく富士山の伏流水が溶岩断層
の壁から白糸のように滲み出して流れ落ちる。但し左隅には近くの湧水が川になっている部分もある。
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           中: 白糸の滝へ下る途中の音止めの滝。討入りの手順を相談する兄弟に配慮して音を止めたと伝わる。すぐ下流で白糸の滝と合流して芝川となり、
約10km南で富士川に合流する。流域には西山本門寺伝・惟盛の墓(共に別窓)など、ややマイナーなスポットも点在する。
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           右: 祐経の宿舎に討ち入る前に兄弟が身を潜めて手順を密談した「曽我の隠れ岩」。狩宿跡に残る祐経の墓までの距離は約150m。


     

           左: 工藤祐経を祀る社。ここに巻き狩りに参加した祐経の宿舎があり、前夜から同宿した備前国吉備津宮の王籐内も共に惨殺された。
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           中: 何故か朱色に塗られた覆屋の中に祐経の墓石が納められている。粗末ではあるが風化を避けるためには欠かせない設備だろう。
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           右: 墓標は高さ50cmほどの石塔で「工藤左衛門尉祐経 塚」の文字が刻まれている。両サイドを撮影すべきと悔やんでも後の祭り、その後に
施錠されてしまったらしい。


     

           左: 祐経を討った兄弟は頼朝の狩宿を目指し、約1km南で兄の十郎祐成が 新田四郎忠常 に討たれた。参道奥に慰霊墓が建っている。
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           中&右: 祐成が討たれた慰霊地の墓域と墓標は鎌倉末期から室町時代頃の構築と推定される。杉林に囲まれた清浄な雰囲気の場所だ。


     

           左: 慰霊地に近い曽我八幡宮。祭神は応神天皇、相殿に十郎祐成・五郎時致・十郎の愛人虎御前を祀る。仇討ちの4年後、建久八年 (1197) の建立。
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           中: 社伝に拠れば、兄弟の孝心に打たれた頼朝が畠山重忠を派遣して建立し、丹波法眼(快慶?)に兄弟の像を彫らせた。主神の応神天皇騎馬像は
頼朝の命令で文覚が刻んだ。歌舞伎などで曽我物語の人気が高まった頃は兄弟所縁の遺品を江戸で出開帳(出張展示)し、神社の維持管理費を
捻出していたらしい。残念ながら天正元年 (1573) の火災で頼朝の寄進状なども含め全てが焼失し、既に富士宮市の文化財リストにも記載はない。
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           右: 上流の音止めの滝近くから下流の狩宿(正面左側の森)を。狩宿は芝川と潤井川に挟まれた200m四方ほどの平地である。土地の傾斜が強いため
潤井川はかなりの急流で、川床に多くの段差を設けて流れの強さを緩和している。


     

           左: 狩宿周辺略図。頼朝は下馬桜の枝に乗馬を繋いだ。宿舎を囲む三本のケヤキに幕を張り「裏門」の位置に裏口を設けたと伝わる。
ケヤキ@は大正末期に枯死、ケヤキAは伝承のみ、ケヤキBは現存しているが枯死寸前らしい。800年以上では無理もないか。
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           中: 頼朝の宿舎「狩宿」の南、井出家の前に残る下馬桜(駒止めの桜)。事件当時の樹の子孫なのか否かは、良く判らない。
北杜市の 山高神代桜 (實相寺の公式サイト)は1800年、福島県三春町の 滝桜 (観光協会のサイト)は樹齢1000年以上を称しているから
生き続けている可能性は否定できないが山桜の寿命は2〜300年、ごく稀に500年を超す程度が限界らしい。
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           右: 現地の資料写真を転載した満開の下馬桜。樹勢は衰えたが近年はやや活性が高まり、4月中旬には見事な花を見せるという。

     

           左: 狩宿があった井出家は巻き狩り当時から続く豪農。安永五年(1776)と寛政九年(1797)に焼失、それ以後の建築らしい。
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           中: 写真の長屋門(高麗門)は南北に各20坪ほどの厩や下男部屋・倉庫などを設けた典型的な豪農の門。これは、一見の価値あり。
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           右: 中央奥の倉庫の右奥・樹木の手前が狩宿の跡、とされる。その右手の「元屋敷」に安永五年焼失前の井出家屋敷があったらしい。

     

           左: 狩宿の跡。背後の樹林の中にケヤキBが残り、背後は深い崖が芝川に落ち込む。前面は潤井川が流れ、要害の体をなしている。
           中: 狩宿の前から北東・曽我八幡宮側、兄を討たれた五郎時致が進んできた方向を見る。当時は一面の原野が広がっていたのだろう。
           右: 狩宿の背後、20mほどの崖が芝川に落ち込む。芝川は10km南で富士川に合流し、潤井川は20km南で田子の浦に流れ込む。