奥州藤原氏が防戦を試みた阿津賀志山の防塁 

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【吾妻鏡 文治五年(1189) 8月7日】
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頼朝 は陸奥国伊達郡阿津賀志山に近い国見驛に着いた。夜半に雷鳴が響き、宿舎近くにも落雷があった。藤原泰衡 は鎌倉軍が奥州に向けて出陣した情報を既に知って
おり、以前から阿津賀志山に防塁を設けて守る準備を固めていた。

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  ※国見驛: 鎌倉時代初期の驛の位置は不明だが、後世の国見宿は旧町役場に近い国道4号(旧奥州街道)沿いにOPENした 道の駅 あつかしの郷(別窓・地図)を中心
にした500mほどの一画だったらしい。
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奥州藤原氏は国見宿と阿津賀志山の中間に巾五丈(15m)の堀を構え、逢隈川(阿武隈川)の一部に堰を設けて水を引き込み防御の柵を構えていた。
泰衡は国分原鞭楯(仙台駅東の榴ヶ岡(地図)の可能性が高い)に本陣を置き、異母兄の西木戸(錦戸)太郎 藤原国衡 を大将として金剛別当秀綱と子の下須太郎秀方率いる二万騎の軍兵を阿津賀志山から逢隈川まで三里(1800m)の間に待機させた。
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更に刈田郡(白石市)にも砦を構え、名取河と廣瀬河には太縄を張り巡らして防御線とした。また栗原・三迫・黒岩口・一野など(いずれも宮城県栗原市周辺)には若九郎大夫・余平六らの郎従を大将として数千の兵を置いた。また田河太郎行文・秋田三郎致文を派遣して出羽国を守らせた。
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夜に入り、頼朝は明朝に泰衡の先陣を攻めるよう命令した。畠山重忠 は連れてきた80人の下人に用意した鋤鍬で土石を運ばせて堀を埋め、攻撃の障害になるのを防いだ。
小山(結城)朝光 は近習として詰めていた頼朝の宿舎を退去し、異腹の兄 小山朝政の郎従を率いて阿津賀志山に向かった。一番乗りの栄誉を得るつもりである。

土塁断面 右:阿津賀志山防塁の構造   画像をクリック→拡大表示へ
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鎌倉軍を阻止するため 藤原泰衡 が築いた防塁跡は阿津賀志山の山頂近く(地図)から始まり、阿武隈川の古流路・滝川(地図)まで約3.2kmの区間で確認できる。農地の拡張や道路の開通のため寸断しているが、各地区の遺構は比較的鮮明だ。
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国道北側防塁は阿津賀志山から東北道とJR東北本線を越えて国道4号線まで350m続いている。昭和十年前後に堀江繁太郎(画家・県文化財調査委貝)が描いた断面図(県立図書館蔵)に拠れば、北部の防塁は三重の土塁と二重の空堀で構成され、防塁全体の巾は約24m。
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斜面と平面はそれぞれ直線状(箱薬研堀)で、調査した時点では国道に近い部分は既に失われていた。
中央の土塁頂上が調査当時の石母田村と大木戸村の村境で、国衡勢の大手口である。
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現在の国道4号線に沿った北側には「弁慶の硯石」や「義経腰掛け松」などの史跡が点在している事から考えても、平安末期〜鎌倉時代初期の奥州街道(奥大道・東山道)は現在の国道と東北線の間を北上し、阿津賀志山(厚樫山)の山裾を通って国見峠(宮城県白石市との境・貝田駅近く、標高200m)に向かっていたのだろう。
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国見峠の近くの長坂路が古道ルートで、石那坂合戦 で敗れた 佐藤基治 主従18人の首が晒された経が岡がある。ただし吾妻鏡には赦免されたとの記載もあり、赦免されて飯坂へ帰った可能性も捨てきれない。
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【吾妻鏡 文治五年(1189) 8月8日】
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金剛別当秀綱は数千騎を率いて阿津賀志山の前に布陣、頼朝は早朝に 畠山重忠小山(結城)朝光加藤次景廉工藤行光 と祐光らに命じ開戦、防戦した秀綱軍は
大軍の波状攻撃を受けて昼前には退却、秀綱は大木戸の本陣(貝田)に駆け戻って敗北を国衡に報告し、作戦を立て直した。

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       〜吾妻鏡ではここに短く石那坂合戦の描写が入るが、この部分は「佐藤基治と医王寺」のコーナーに移動して記述した。〜
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長い時間と労力を費やして築いた防塁は僅か数時間で突破されてしまう。鎌倉軍は 木曽義仲 追討や平家追討で実戦経験を重ねた猛者が揃っている上に 「手柄を立てれば奥州の土地が手に入る」 という夢がある。対する泰衡は身内の後継争いや義経追討程度の「小競り合い」しか経験していないから勝敗のキスは既に明白である。
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圧倒的な兵力差のある敵を正面で迎え撃つのは基本的に愚策で、持久戦かゲリラ戦に持ち込んで冬を待つ以外に勝機はない。ちなみに旧暦の8月8日は西暦の9月19日だから二ヶ月ほど耐えれば雪になり、補給線の延び切った遠征軍の方が不利になるのは後三年の役・沼柵の合戦でも証明済みだ。
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義経 を殺して服従すれば許される」程度の判断しかできなかった泰衡には中長期の戦略を立てるだけの資質はなかった。現代に当て嵌めれば、小沢グループを切れば自民・公明が協力してくれると考えた野田元総理らの無能が結果として安倍晋三の国家主義政権を招いてしまった。
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ところで、頼朝 が全国から召集した公称28万の大軍は、実数どの程度だろうか。100人の有力御家人が平均1000人の戦闘員を集めたとして、10万人前後が限度だろう。日本略記に拠れば鎌倉時代の総人口は486万人、複数の研究者による推定は600〜750万人。例えば室町時代の守護大名は平均して325騎+歩兵2500人の動員能力があり、足利将軍家を10家の大名に換算して守護大名を加えると37〜60大名、日本全土の兵の総数は14万〜20万と推定されるらしい。やはり史書に載った兵力は五分の一程度に割り引いて考えるのが妥当、だろう。


     

           左: 阿武隈川上空からの鳥瞰。ベージュの線は阿津賀志山防塁のおおまかな位置を示す。奥州街道は山裾を通って右上の谷へ北上していた。
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           中: 地図に落とし込んだ史跡の位置。鎌倉軍本隊は阿津賀志山防塁の正面突破を目指し、三浦義村 の一隊は阿津賀志山の山頂近くを迂回して
防塁の内側に攻め込んだ。更に 小山(結城)朝光宇都宮朝綱 らは北の小坂峠方向から大きく迂回して翌早朝に国衡の本陣に攻め込んだ。
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           右: 資料館の展示から転載した全域の図面。もし防衛側の指揮官が義経だったら逆のルートで頼朝本陣を夜襲しただろう、と思う。
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【吾妻鏡 文治五年(1189) 8月9日】
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夜になり、明日の早朝に阿津賀志山を越えて合戦を決着させよとの命令が下った。 三浦義村? 葛西清重工藤行光小山(結城)朝光と祐光・狩野親光藤澤清近 および河村千鶴丸(13歳)の七騎が畠山重忠の陣を駆け抜けて阿津賀志山を越え一番乗りを目指した。明け方の出発では大軍に呑み込まれるため抜け駆けが困難になる、と考えた行動である。
重忠の郎従成清がこれを知って「この合戦での一番乗りは抜群の功績だから彼らの行動を阻止すべきである。さもなくば抜け駆けを訴えて停止させ、我々が山を越えるべきです」と申し出た。重忠は「他人が敵を退けたとしても、既に先陣は私が承っている。私が攻め込む前の合戦は全て重忠の勲功であり、彼らの抜け駆けを妨げるのは手柄の独占を願うようなもので、武略の本意ではない。放置せよ」と答えた。

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※工藤行光: 頼朝挙兵に加わり石橋山から逃げる途中で自刃した 狩野茂光 が甲斐の分家から迎えた養子らしい。祐光は年代から考えると工藤祐経の子・祐時 (幼名は
犬房丸) の跡を継いだ弟の祐光だろう、と思う。六男が継承した経緯などの詳細は伊東氏の系図で確認を。
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※狩野親光: 狩野茂光の四男。曽我兄弟を産んだ 満江は親光の三女と伝わる(異説あり)。
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【吾妻鏡 8月9日の続き...】
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義村ら七騎は夜を徹して峰を越え、遂に敵陣の木戸口に駆け付けた。それぞれが名乗りを挙げ、泰衡郎従の部伴籐八らが防戦した。工藤行光が一番乗りし、狩野親光が討ち死にした。部伴籐八は陸奥六郡屈指の猛者で、行光は馬を並べて必死に戦った末に籐八を討ち取った。行光は籐八の首を鞍に付け木戸を目指す途中で藤澤清近(清親)が敵の武者と組み合っているのに出会い、協力して討ち取ってから馬を並べて休息した。清近は手助けに感謝するあまり行光の息子を婿に迎えるという軽率な約束をしてしまった。また葛西清重と河村千鶴丸は数人の敵を討ち取った。
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中原親能 の猶子 左近将監能直 は近習として頼朝に仕えていたが、親能は近藤国平を招いて「能直にとって始めての合戦なので面倒を見て欲しい」と頼んでいた。国平はその約束を堅く守り、頼朝の寝所近くで寝ていた能直を密かに呼び出して共に阿津賀志山を越え合戦し、佐藤秀員親子(国衡近親の郎党)を討ち取った。この国平は 斎藤實盛 の外甥で、實盛が平家に属して滅びた後は 上総廣常 に預けられ、廣常が(頼朝の命令で梶原景時に)殺されてからは親能に預けられていた。勇猛で知られた武者の能直に仔細を話して同行を依頼したのが経緯である。
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※軽率な約束: 藤澤清近は現在の前橋市北部(赤城山の南麓)を本領にした御家人。この約束のため、結局は支配権を工藤氏に譲る結果となったらしい。
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※河村千鶴丸: 挙兵当初は頼朝に従わず、後に武芸を認められて御家人に加わった河村秀高の四男。8月12日に頼朝の前で 小笠原長清 を烏帽子親にして元服し


     

           左: 資料館の阿津賀志山防塁ジオラマ。距離感の表現は雑だが判りやすいのは間違いない。縮尺は堀江繁太郎の測量図を元にしている。
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           中: 比較的保存状態の良い「国道北側防塁」鳥瞰図。膨大な労働力を費やして築いた防塁が数時間で突破されるとは何たる悲劇(喜劇か?)。
寛治元年(1087)に藤原氏初代の 清衡 が奥六郡の支配権を握ってから100年続いた藤原氏の栄華も、僅か一日の戦闘で破滅に向かってしまう。
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           右: 防塁の北側から鎌倉軍が攻め込んだ方向を。約800m先の国道4号沿いに県北中学校と、その手前に広いチェーン着脱場が見える。
防塁を挟んだ1km区間の高低差は約50mあり雪の季節には国道4号の難所となる。この高低差も防塁を設けた理由の一つだろう。

【吾妻鏡 同じく、 8月10日】
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頼朝は早朝に阿津賀志山を越えた。大軍が木戸口に押し寄せたが 国衡 も守りを固めて抗戦した。 畠山重忠小山朝政小山(結城)朝光和田義盛下河邊行平三浦義澄三浦(佐原)義連加藤景康葛西清重 らが命を惜しまず戦い、合戦の声は山野に響き渡った。前夜に安籐次を案内にして藤田の宿を出発した小山朝光・宇都宮朝綱 ら七人は会津方向に向かい、土湯の嵩(難所・峠)・鳥取越などを越え、大木戸の国衡軍の背後の山から矢を射て攻撃を開始した。国衡側は前後から攻められて混乱し、防御も作戦も立てられず逃亡した。明け方ながら霧が濃くて道は滑りやすく、敵味方の区別もできないため国衡の郎従は混乱して逃走する者も多かった。
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その中で金剛別当の子息・須房太郎秀方(13歳)は白い鬣(たてがみ)の黒馬に跨り正面に踏み止まった。工藤行光 が立ち向かおうとしたが郎従の籐五男が制止して秀方と組み合った。顔を見るとまだ幼いし名乗ることもしないが踏み止まる訳があるのだろうと考え討ち取った。幼いが力が強く、長時間を費やしてしまった。また、小山朝光は金剛別当を討ち取った。
敗残の兵は泰衡の本陣に駆け付けて阿津賀志山での大敗を報告。泰衡は周章して北へ逃げ、国衡もまた逃亡したので頼朝は追跡の兵を向けた。

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※土湯の嵩: 阿津賀志山から直線で20km以上南西。地理的にこの迂回はあり得ず、伝聞情報の鵜呑みか、石那坂合戦の伝聞と混同した可能性が高い。
「鳥取越え」は厚樫山の北を迂回して大木戸の西北に下るルートで、当時と同じ地名も残っている。完全な奇襲ルートだ。
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※背後を奇襲: 歴史に「もしも」は無意味だけど、局地戦を得手にした義経が国衡の陣にいたら同じルートを逆に辿って頼朝軍の背後を襲撃しただろう。
秀衡には「義経を大将軍にして頼朝の侵攻に備えよ」と遺言した先見性があったが、義経を殺した泰衡は凡庸な四代目に過ぎなかった。
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【 吾妻鏡 8月10日の続き 】 国衡の受けた矢傷の位置、袖三枚の少し後(11日の記載)
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矢傷
和田義盛 は先陣の更に先を走り、夜になって芝田郡大高宮の近くで出羽街道から大関山を越えようとしていた国衡と遭遇、追いついて挑戦した。互いに名乗り、弓手(左)に向き合った。国衡は14束の矢をつがえたが、弓を引く前に義盛の放った13束の矢が鎧の袖を射抜き、痛みに耐え切れず退いた。
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義盛は二の矢をつがえて敵の大将軍を射取ろうとしたところへ 畠山重忠 の大軍が追い付いて二人の間を隔て、重忠の門客である大串次郎が国衡に向き合った。肥満体の国衡がj跨っていた九寸の高楯黒は国衡を乗せて毎日三度平泉の高山に駆け上がって汗もかかない程の名馬だが、二の矢を恐れた国衡が重忠の大軍に驚き道を外して深田に踏み込み鞭を当てても抜け出せず、大串らに討ち取られた。

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※芝田郡大高宮: 宮城県大河原町金ヶ瀬の大高山神社(公式サイト・地図)、阿津賀志山から約25km北で古墳時代
から続く柴田郡の総社格。
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※大関山: この地名は現存しないが、現在の国道48号(関山街道)を越えようとしたのだろう(地図)、関山街道の
20km南側にも山形道に並行して走る笹谷街道があり、ここには有名な有耶無耶の関があったらしい。
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※九寸の名馬: 背高四尺(約121cm)以上の馬を龍蹄、四尺を越えると一寸・二寸と呼ぶから九寸は約150cm。まれに五尺(153cm)の大型馬も
いたが一般的には四尺台だった。現代の乗馬クラブの馬は150〜170cm、147cm以下はポニー種の範囲となる。
ポニーに跨る鎧武者なんて想像したくないけど。
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また泰衡郎従らは金十郎・勾當八・赤田次郎を大将にして根無藤に砦を構えたため三澤安藤四郎・飯富源太らが追尾して戦った。降伏する気配もなく、根無藤と四方坂の間で七回も交戦したが金十郎が討たれて敗北し、勾當八・赤田次郎ら30人が捕虜となった。この合戦が無事に終わったのは三澤安藤四郎の作戦のためである。
今日、鎌倉では御台所政子が御所の女官数人を連れて八幡宮に百度詣をした。奥州追討の勝利を祈請したのである。

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※根無藤: 刈田郡蔵王町円田(地図)、前九年の役で 源頼義 が刺した鞭が根付いたと伝わる。近くに一戦場の地名や前九年の首塚などもある。
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【吾妻鏡 同じく、 8月11日】
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頼朝は船迫の宿に入った。 畠山重忠藤原国衡 の首を献じて御感の言葉を得たが 和田義盛 が進み出て「国衡は私の矢を受けて命を落す結果を招いたのであり、
重忠の手柄ではない」と。重忠は笑いながら「討ち取った証拠もない義盛の言葉は想像に過ぎない。私が首を斬ってここに持参したのは紛れもない事実である。」
と応じた。義盛は重ねて、「首の件はその通りだが剥ぎ取った鎧を確認して貰いたい。国衡と弓手に向き合って射た矢の痕は国衡の紅威鎧の袖 (上から) 2、3枚に
在る筈で、馬は黒毛だった」と。確認すると確かにその通りで、袖三枚の少し後に鏨で突き通したような痕跡があった。
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頼朝は重忠に向って「矢を放ったか」と問い、重忠は「否」と答えた。従って義盛の言葉が全て符合している。重忠は性格が清廉で偽りのない人物なので虚偽を企んだのではない、郎従が先行し重忠は後方にいたため国衡が矢に当っていたのは知らなかった。大串が首を持参し重忠に献じたため討ち取ったと判断したのだから問題にすることではない、と裁定した。

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※船迫の宿: 阿武隈川と白石川の合流点近くにある宿場で秀衡の家臣・船迫長門の名に由来する(地図)。阿津賀志山から約35km。


     

           左: 北側防塁のスナップ。800年が過ぎたため堀には土砂が堆積し土塁も崩れているが原型ははっきりと確認できる。JR東北本線南側から
阿武隈川近くまでの3kmほどは、シーズンさえ選べば畦道などを辿りながら踏破することもできる。ただし私有地には要注意だ。
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           中: 国道4号の200mほど北を通る旧奥州街道近くに残る防塁の跡。左の画像から20mほど草地の中に入って撮影したもの。
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           右: 旧奥州街道の北側、JRの架線の先に阿津賀志山(厚樫山・標高289m)が見える。国道から山頂までの高低差は180mほどある。


     

           左: 防塁最南端部分の鳥瞰図。国道北側と同様に、この部分も防塁痕跡の保存状態が良い。実際にはこの周辺での戦闘はなかったらしい。
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           中: 鳥瞰図とほぼ同じ角度で撮影した阿津賀志山防塁南端部の跡。浅くなった二ヶ所の堀と三ヶ所の土塁の全体がはっきりと確認できる。
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           右: 観月台文化センターに隣接する水雲神社(地図)。頼朝が防塁攻めの本陣を置いたと言われるが異説もある。神社から東方向の北古舘にかけての
一帯は10mほど高くなっており、通称源宗山(源氏の宗家を意味するらしい)と呼ばれている。


     

           左: 水雲神社の本殿。この丘は南北朝時代に何度か合戦があり、室町時代には伊達氏の家臣藤田一族が居館を置いたらしいが詳細は不明。
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           中: 伝承に拠れば、吉次と共に奥州に向った義経が街道の横に生えていた松の若木を曲げて腰掛けた名残りと伝わる(背後は二代目の松)。
その伝承によって奥州街道の名所になり、唐崎の松(近江)や曽根崎天神の松(摂津)と並ぶ三名松として人気が高まったという。
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           右: 初代の松は文政四年(1823)に失火のため焼失、残った根元部分が覆い屋の中に保存されている(地図)、防塁跡からも近い。

この頁は2022年 8月 12日に更新しました。