鎌倉軍を阻止するため
藤原泰衡 が築いた防塁跡は阿津賀志山の山頂近く(
地図)から始まり、阿武隈川の古流路・滝川(
地図)まで約3.2kmの区間で確認できる。農地の拡張や道路の開通のため寸断しているが、各地区の遺構は比較的鮮明だ。
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国道北側防塁は阿津賀志山から東北道とJR東北本線を越えて国道4号線まで350m続いている。昭和十年前後に堀江繁太郎(画家・県文化財調査委貝)が描いた断面図(県立図書館蔵)に拠れば、北部の防塁は三重の土塁と二重の空堀で構成され、防塁全体の巾は約24m。
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斜面と平面はそれぞれ直線状(箱薬研堀)で、調査した時点では国道に近い部分は既に失われていた。
中央の土塁頂上が調査当時の石母田村と大木戸村の村境で、国衡勢の大手口である。
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現在の国道4号線に沿った北側には「弁慶の硯石」や「義経腰掛け松」などの史跡が点在している事から考えても、平安末期〜鎌倉時代初期の奥州街道(奥大道・東山道)は現在の国道と東北線の間を北上し、阿津賀志山(厚樫山)の山裾を通って国見峠(宮城県白石市との境・貝田駅近く、標高200m)に向かっていたのだろう。
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国見峠の近くの長坂路が古道ルートで、
石那坂合戦 で敗れた
佐藤基治 主従18人の首が晒された経が岡がある。ただし吾妻鏡には赦免されたとの記載もあり、赦免されて飯坂へ帰った可能性も捨てきれない。
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【吾妻鏡 文治五年(1189) 8月8日】.
金剛別当秀綱は数千騎を率いて阿津賀志山の前に布陣、頼朝は早朝に 畠山重忠・小山(結城)朝光・加藤次景廉・工藤行光 と祐光らに命じ開戦、防戦した秀綱軍は
大軍の波状攻撃を受けて昼前には退却、秀綱は大木戸の本陣(貝田)に駆け戻って敗北を国衡に報告し、作戦を立て直した。.
〜吾妻鏡ではここに短く石那坂合戦の描写が入るが、この部分は「佐藤基治と医王寺」のコーナーに移動して記述した。〜
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長い時間と労力を費やして築いた防塁は僅か数時間で突破されてしまう。鎌倉軍は
木曽義仲 追討や平家追討で実戦経験を重ねた猛者が揃っている上に
「手柄を立てれば奥州の土地が手に入る」 という夢がある。対する泰衡は身内の後継争いや義経追討程度の「小競り合い」しか経験していないから勝敗のキスは既に明白である。
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圧倒的な兵力差のある敵を正面で迎え撃つのは基本的に愚策で、持久戦かゲリラ戦に持ち込んで冬を待つ以外に勝機はない。ちなみに旧暦の8月8日は西暦の9月19日だから二ヶ月ほど耐えれば雪になり、補給線の延び切った遠征軍の方が不利になるのは後三年の役・沼柵の合戦でも証明済みだ。
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「
義経 を殺して服従すれば許される」程度の判断しかできなかった泰衡には中長期の戦略を立てるだけの資質はなかった。現代に当て嵌めれば、小沢グループを切れば自民・公明が協力してくれると考えた野田元総理らの無能が結果として安倍晋三の国家主義政権を招いてしまった。
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ところで、
頼朝 が全国から召集した公称28万の大軍は、実数どの程度だろうか。100人の有力御家人が平均1000人の戦闘員を集めたとして、10万人前後が限度だろう。日本略記に拠れば鎌倉時代の総人口は486万人、複数の研究者による推定は600〜750万人。例えば室町時代の守護大名は平均して325騎+歩兵2500人の動員能力があり、足利将軍家を10家の大名に換算して守護大名を加えると37〜60大名、日本全土の兵の総数は14万〜20万と推定されるらしい。やはり史書に載った兵力は五分の一程度に割り引いて考えるのが妥当、だろう。