堀親家の出身地 伊豆市大野の籘次屋敷 

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堀籘次親家 は出自も系譜も不明、伊豆箱根鉄道駿豆線の修善寺駅近くで狩野川に流れ込む古川の上流・約7kmの狭いエリアを本拠とした、当初は全く無名だった
土豪である。館跡は古い街道(大野路)から分かれて更に東へ遡った、今では殆ど人家も見られない辺鄙な場所に位置する。
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広い敷地内で日本競輪学校を運営しているサイクルスポーツセンター(公式サイト・五輪の自転車競技会場)の西側山裾の古川支流沿いに位置する地図
頼朝の挙兵当初から手勢として参加し平家追討・奥州藤原氏追討などに従軍して功績を挙げた歴戦の武者で、工藤氏庶流の堀宗俊の二男とされる。
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元暦元年(1184)、人質として鎌倉に滞在していた 木曽(源)義仲 の嫡男 清水冠者義高 が鎌倉から逃亡した時には追討を命じられ、郎党の籐内光澄が
入間川で義高を殺し首を鎌倉に持ち帰った事件で良く知られている。頼朝 の没後に仕えた二代将軍 頼家 が北條氏と対立して勃発した比企の乱の余波を受け、
北條時政 の命令を受けた 工藤行光狩野茂光の三男) に殺された。単純で不器用な生き方しかできなかった武者のイメージが強い。


     

           左: 堀籘次親家の菩提寺霊洞山定林(じょうりん)禅寺。明治初期まで、ここ大野路は修善寺と東海岸の宇佐美を結ぶ貴重な物資輸送ルートだった。
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           中: 静かな佇まいの寺である。20年ほど前、の伊豆の国市では近くの智泉院と東照院と併せて「大野三山を歩くハイキングコース」をPRしていたが
笛吹けど踊らず、反応は乏しかったらしい。特に見どころのない、静かな山村だから無理もないのだが。
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           右: 境内横の「四国八十八ヶ所霊場お砂踏場」。大野路の旧道は定林寺500m東の大野神社前から峠道を登って、2021年東京五輪で自転車競技の
会場になったサイクルスポーツセンターの敷地に入る。以前は犬どもと芝生で遊び回った思い出の場所だ。峠に残る細窪地蔵尊を経て田原野に下り、
県道19号に合流して東海岸を遠望する 亀石峠(別窓)に至る。


     

           左: 参道横の掘親家慰霊墓。頼朝の没後は頼家に仕えた親家は建仁三年(1203)の比企の乱の後、時政の命を受けた工藤行光に殺された。
妻子と舅を殺された頼家が時政追討命令を親家に託し、命令で届けた先の 和田義盛 が時政に連絡した、その結果である。掘親家は手紙を届けた
だけで時政追討に加わる意図はなかったらしいが、何とも間が悪かった。
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           中: 定林寺は 曹洞宗。伊豆東海岸は日蓮聖跡の関係で日蓮宗が多いが、中伊豆地域には禅寺が点在する。ちなみに、有名な 修禅寺(別窓)も現在は
曹洞宗、創建当初は桂谷山寺と呼ぶ真言宗の古刹だった。
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           右: 定林寺から見る籐次屋敷の方向には古川の上流に沿って狭い農地が続く。伊豆市の最北東部で北は伊豆の国市、東は伊東市に接する。


     

           左: 定林寺から更に2kmほど北東、籐次屋敷と呼ばれる場所。狩野川支流に沿った狭い山間部で、屋敷ではなく出身地と考えるべきだろう。
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           中: 地元の老人会有志が建てた堀籐次親家館跡の石碑。北條氏を憚って長い間供養する事も出来なかった、と刻まれている。
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           右: 南西の修善寺方向はやや拓けた里山風景が続く。堀親家は宗俊(素性は不詳)の二男、中伊豆に群居した弱小土豪の一人と推定される。


     

           左: 細窪地蔵尊の前から大野郷の方向を撮影。広い敷地を利用した自転車のテーマパークになっており、立ち寄り温泉やバラ園もある。
遠くに見えるのは金冠山(816m)や達磨山(982m)など、軽いハイキングに向く西伊豆の山並み。
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           中: 現在はサイクルスポーツセンター敷地に建つ細窪地蔵尊。大野郷と長者原を結ぶ大野路の峠道に祀られている。江戸末期までは牛馬用の水場や
木蔭がある休憩場所で賭場もあったらしい(勝負事にご利益がある、と)。地蔵尊は明治初期に定林寺に遷され祀られている。
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           右: 細窪地蔵尊の前から長者原から亀石峠に向う道。亀石峠から修善寺へ抜ける最短ルートだが、私有地のため夜間は通行止めになる。