八重姫所縁の真珠院と満願廃寺跡  

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【伊東に残る資料に依拠すれば、】
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    承安三年(1173)・・・千鶴丸を失った 八重姫江間小四郎に嫁し(通い婚)、供養のため夫に懇願して西成寺(現在の最誓寺・別窓)を建立。
    治承四年(1180)・・・7月、頼朝 を慕って伊東祐親 の館を抜け出し韮山の 北條館(別窓)を訪ねた。
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【真珠院の寺伝に依拠すれば、】
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    治承四年(1180)・・・2月、祐親が千鶴丸を殺し八重姫を館の一室に閉じ込めた。同年7月、頼朝を慕って伊東の館を抜け出し韮山の北條館へ。
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二つの資料には千鶴丸死没から八重姫の北條邸訪問までの間隔に大きな差が存在する。真珠院では頼朝と八重姫の別離から半年弱の事件としているが、八重姫が
北條邸を訪ねた時には頼朝と政子の間に大姫(安元三年・1177年誕生)が産まれているから、半年の時間差は半年のレベルではなく、5〜7年になる。
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同じく真珠院寺伝では「八重姫と同じように我が子を殺された 静御前 がこの地を訪れ、同じ境遇に同情して祠を寄進し冥福を祈った、これが境内の「静堂」の
由来である」としているが、愛児を失った直後の静女に6年も前の事件に心を寄せる精神的余裕はない、だろう。
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静女の遺品が残っているため最も信頼できる埼玉県 栗橋の伝承では、義経が文治五年(1189)4月に死んだのを知って同年の秋頃に栗橋で病没している。
八重姫のの悲劇が世間に知られたのは曽我物語が定着した鎌倉時代の中・後期以降、その頃に八重姫と静を結びつける伝承が生まれたのだと考える。


     

           左: 真珠院(曹洞宗)の横には古川が流れる。ここが平安末期に「激流が渦を巻いていた」真珠ヶ淵だが、護岸工事により当時の面影はない。
厳密に考えれば更に200mほど下流の狩野川との合流点を八重姫入水の地、と考えるべきか。
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           中: 八重姫の亡骸を埋葬したのが満願寺で治承四年(1180)なら天台宗か真言宗、現在は 蔵春院(伊豆三名刹・公式サイト・地図)の末寺で曹洞宗。
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           右: 参道の突き当りが本堂、山門の右に静御前が菩提を弔った静堂が建つ。現在の建物は昭和56年(1981)の再建による。

豆州志稿(寛政十二年(1800年)刊行)と続・豆州志稿(明治二十一年(1888年)刊行)の記載を確認すると、
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    豆州志稿 巻十二  静の墓について    現代得られている情報との整合性をどうするか。暫く苦しみそうだ。
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頼朝が伊東祐親の末娘・静 (八重との混同) と情を通じた。これを怒った祐親は頼朝を殺そうとしたが、頼朝はこれを避けて北條に逃げた。
頼朝を慕った静が後を追ったが会えず、池に身を投げて死没し、同行の侍女六人も殉じた。村人は彼女らを哀れみ、池の近くに葬り七つの
石塔を建てて弔い、追福のため満願寺を建立した。この池を「静の池」、石塔を「静の墓」と呼び、近年になって「七の宮」
あるいは「静の宮」と呼ぶようになった。
ただし、頼朝あるいは祐親との関係は定かではない。一説には祐親は娘を取り返して江間小四郎または山木判官と再婚させたとも伝わる。
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      増訂豆州志稿 巻十の下   義経の側妾・静の開基と言われるが確証がない。寺の跡に残っていた静の霊堂は以前に真珠院に移設した。
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      増訂豆州志稿 巻十二   中條村の西・満願廃寺にあった静の墓は慶應三年に同村の真珠院に移した。詳細は不明である。
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           左: 頼朝の異母弟 阿野全成 が静堂の伝承に心惹かれ、満願寺の隣に弟の義円と義経を弔って建てたのが真珠院、と伝わる。全成の所領は沼津西部の
阿野荘だから可能性はあるが、八重−静−全成の心が惹かれ合ったと言うのは作為が過ぎる。
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           中: 姫の供養塔や厨子の中の木像(満願寺にあった像?)が祀られている。地元では「お静さん」と呼ばれ、縁結び・子宝の功徳がある、と。
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           右: 八重姫の木像をアップで撮影。10cmにも満たない小さな像で制作年代などは全く不明、眺める限りでは素性の見当がつかない。


     


           左: 境内裏に残る静岡県最古の五輪塔。9代執権北條貞時(8代執権時宗嫡男)の頃、正安四年(1302)銘が刻まれている。素性は不明だが
韮山の圓城寺(享保末期〜寛政初期の間(1732〜1790)の頃に廃寺)から移設したらしい。水輪の四方に仏像を刻んだ珍しい造り。
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この圓城寺は高時の生母・覚海圓成が北條氏旧邸を改築した圓成寺(圓成寺)の可能性が考えられる。
圓成寺の記録は室町時代の1440年前後まで確認できるが、1800年前後に編纂された豆州志稿は「近年まで存在した」と書いている。
もう少し詳しく調べてみる必要がある、かも知れない。
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           中: 古川に沿った墓地の奥には南北朝時代の貞治二年(北朝暦・1363年)作の阿弥陀如来磨崖仏が刻まれている。
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           右: 満願寺の跡は真珠院の北へ300mほどの崖下。既に発掘調査が終って埋め戻され、今では痕跡も残っていない。韮山図書館に調査報告書が
あるかも知れないから、いずれ立ち寄ってみようと思う。

この頁は2022年 7月17日に更新しました。