武蔵府中 分倍河原の合戦 

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分倍河原の合戦  右:鎌倉幕府の命運を決めた分倍河原合戦場    画像をクリック→拡大表示
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鎌倉時代の、と言うよりも江戸時代に堤防などが整備されるまでの多摩川は中央道の南側付近、分倍河原古戦場跡の碑が建っている新田川分倍公園付近(地図)を流れていた。この合戦で勝者となった 新田義貞 の姓を転用して名付けたのが新田川、今では既に大部分が暗渠となっている。
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現在の多摩川ルートを流れていたのは関戸橋の約2km上流で南側から多摩川に流れ込んでいる現在の浅川で、当時は関戸橋から4km下流の是政付近で(新田川ルートを流れていた)多摩川に合流していた。従って分倍河原古戦場とは、二つの河川に挟まれた南北1km×東西3〜4kmの、文字通りの河原だった。合戦があった元弘三年(1333年)5月16日は新暦の6月28日、梅雨の最中だが川の水量は騎馬武者が渡渉できる程度で、河原も武器を携えて走り回るのに支障はなかったらしい。
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ちなみに、平常時の多摩川水面の標高は40m、河川段丘が始まるNEC工場北側で60m、NEC工場で55m、分倍河原駅で52m、新田川合戦碑で51m、関戸橋北詰52m、関戸橋南詰55m(概略)。現在川崎街道が通じている多摩川南岸(多摩丘陵北端)から甲州街道南側の河川段丘が始まるNEC工場まで、約2.5kmの平坦地が続いている。
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最初に古戦場跡の碑が建てられたのも現在地ではなく、昭和10年(1935)の建造当時は鎌倉街道の西側だったと伝わっている。道路の拡張工事に伴って現在地に移設したのだ、と。
碑文は新田氏の子孫で元々は岩松を名乗っていた新田俊純男爵の嫡子で、家督と共に爵位も世襲した新田忠純。父の俊純は明治維新の功績もあったらしいが、主として皇室に尽くした 新田義貞
勲功を遡って賞した爵位授与だろう。鎌倉時代の初期から名乗っていた筈の岩松姓を新田姓に改めているあたりに権威に阿る姿勢が感じられて鬱陶しい。
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石碑横の説明看板は次の通り。鎌倉街道が武蔵国から相模国に入る交通の要所だったため、南北朝時代以降は数度の合戦がここで行われている。
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東京都指定旧跡 分倍河原古戦場  所在地 府中市分梅町2−59 新田川分梅公園  指定 大正八年十月
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文永 (1274) と弘安 (1281) の二度の元寇を経験した頃に北條執権政治は根底からゆらぎ始め、貧困に苦しむ御家人救済の方法として発布した徳政令が意図とは逆に政権破滅の速度を早めた。元弘三年 (1333) 5月、新田義貞 は北條氏の本拠でもある鎌倉に攻めるため、上野・武蔵・越後の兵を率いて上野国新田庄から一路南下し、5月11日に所沢近くの小手指ヶ原で北條方の副将長崎高重と桜田貞国の連合軍を敗走させ、更に久米川の合戦でも優勢に立った。北條方は分倍に陣を敷き、北條泰家を総帥として新田勢を迎撃した。新田勢は敗れて所沢方面に逃れたが、この時に武蔵国分寺が新田勢のために焼失させられたという。新田勢には三浦義勝をはじめ相模の豪族の多数が参陣し、16日未明には再び分倍の北條勢を急襲、これを破って一直線に鎌倉を攻め、22日に鎌倉幕府は滅亡した。      平成十年三月 建設  東京都教育委員会


     

              左: 合戦の勝利者・義貞の姓から名付けた新田川の北側は府中の高台が続いており、昔日の多摩川は高台の裾が流路だったと伝わっている。現在の新田川は
大部分が暗渠で分倍河原古戦場の付近は緑地帯、遊歩道も整備された。駐車場所はないが、短時間なら近くのコンビニに停めることができる。
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              中&左: 昭和10年(1935)に建造され鎌倉街道の西側から移転した分倍河原古戦場碑。碑文を書いた新田忠純男爵は新田の系ではあるが、厳密には
庶流岩松氏の末裔で義貞の子孫ではない。
激戦を繰り広げた筈の分倍河原周辺は比較的早くから市街化が進んだ地域のため合戦の遺構は全く見られず、わずかに駅前にある義貞の騎馬像と
古戦場碑が往時を偲ばせる。ニュータウンの開発に伴って史跡の保存も進んだ多摩地区とは大きな違いがある。

この頁は2019年 11月 6日に更新しました。